教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

保護者とは子育て協働の関係でありたい④

保護者へのメッセージ、2007・2008年の記録です。

 

 

おうちの方へ特集号 2007.5.14

 

「見守る教育」とは

 

5月9日 チェック&アタック
                              YS
 私は、家でチェック&アタックをやっている。毎週火曜日に、○○先生という先生から電話がかかってくる。学校で何をしているかとか、分からないことを電話で言ったりする。チェック&アタックは、プリントをする。分からない問題があったら、チェック&アタックの本を見たりして、問題を解いている。6年生の間は、がんばりたいと思う。

 

 学力の問題が大きな社会問題になっています。今回は、5月10日付「朝日新聞」に掲載された宮本哲也さんの文章を紹介します。


 私は、昨年12月に放送された「情熱大陸」という番組で宮本さんという方を知り、氏の教育観に大いに刺激を受けました。


 先ごろ始めた学習プリントは、目先の点数ということよりも子どもの「幹」を育ることを目指しています。“強い子に育てる”ために「見守る教育」を、一緒に考えてみませんか。

「見守る教育」試してみよう


                      算数教室主宰 宮本哲也

 私は首都圏某所で小さな算数教室を細々と営んでおります。


今日は、私が実践している、「ゆとり教育」でも「つめこみ教育」でもない第3の教育についてお話しさせて下さい。


 ゆとり教育もつめこみ教育も「子どもをいかに伸ばすか」という発想は同じですが、これがそもそもの間違いで、「人が人を伸ばすことなどできない」というのが今のところの私の結論です。完成された人間である大人の自分が、未完成の人間である子どもを自分のレベルまで引き上げようという考えは間違いであり、傲慢以外の何物でもありません。確かに大人は知識と経験においては子どもよりも一日の長がありますが、人間としての未熟さという点では大差ありません。


 学べば学ぶほど世界の広さ、そして自分の未熟さを思い知らされますよね。私たち大人にできることは子どもが伸びる適切な環境と材料を提供してただ見守ることだけです。


 学力とは、いい学校にはいるために必要なのではなく、よりよく生きていくために必要なのです。生命力と言い換えてもいいでしょう。


 私が子どもたちに望むことは、1つの問題に対して10分間、集中して頭を使い続ける姿勢を身につけるということだけです。わからなくても、解けなくてもひたすら考える、これこそが学問の王道です。


 結果を求めることをあせるとすべてが壊れます。解けた問題の数だけ学力が上がるわけではありません。頭を使った分だけ賢くなるのです。努力の見返りは結果ではなく、成長だと考えればどんな難問に出会っても怯むことがなくなるでしょう。


 こういう話をすると「では、伸びない子はどうすればいいのか」という質問が必ず出ますが、そういうことは、できない子が自分の頭で真剣に悩まないと何も進展しません。


 私自身、子どもの頃、勉強ができませんでした。「こんなに何もできなくてどうやって生きていくのかなあ」とぼんやり悩んでいましたが、中学2年のとき、「得意なものは何もないけれど、それでも1番可能性があるのは勉強だろうな」という結論に達しました。できない子に手を差し伸べるのは大人の自己満足だけで、その子の自立、自覚を遅らせるだけです。


 また、学力を身につけることを生活の最優先にしてはいけません。生活の基盤は睡眠、食事、運動に置くべきで、学習は4番目と考えましょう。


 子どもと接する大人の中には「子どもは放っておくと怠けるから無理にでも勉強をさせないといけない」と考えている人が多いと思いますが、強要されることを嫌うのは大人も子どもも変わりません。環境と材料だけを提供してじっと見守りましょう。「ゆとり教育」でも「つめこみ教育」でもない第3の教育、「見守る教育」を試してみませんか。


 ただ、ひとつだけご注意いただきたい点があります。「見守る教育」を「見張る教育」にしてしまうと、子どもは絶対について来ません。冷たい目で見張るのではなく、温かい目で見守りましょう。きっと今よりはうまくいくはずです。


 「見守る教育」は「強い子に育てる教育」でもあります。大人の「信じて待つ」という姿勢も問われます。


               ◇


プロフィール 1959年生まれ。いくつかの大手進学教室を経て、93年宮本算数教室を設立。教室の方針は「教えないこと」。「強育論」「賢くなるパズルシリーズ」など著書多数。

 

 

 おうちの方へ特集号 2008.5.15

 

箸遣い・筆遣い・言葉遣い


 先日発売された子育て雑誌に、子どもの鉛筆の持ち方の特集がありました。鉛筆の持ち方が悪いと低緊張状態になり、集中力がなくなる。ひいては学力低下につながる心配もあるといったことが書かれていました。


 実のところ、我がクラスの6年生も、7割近い子が正しく持てません。矯正用のキャップでも勧めようかと考えていた矢先、職員室の回覧小冊子に「箸遣い・筆遣い・言葉遣い」と題する文章を見つけました。この機会に一緒に考えてみませんか。

 

箸遣い・筆遣い・言葉遣い


聖徳大学児童学部教授 西村佐二

 

 おいしさも半減


 タレントや有名人などが各地の温泉や観光地を巡り、その地のよさを紹介する旅番組で、その地方の食材を使い、その旅館の料理長が腕によりをかけて作った新鮮な料理を出演者が食べるといったシーンをよく見かける。見事な料理が器に盛られて出されてくると、見ているこちらも、思わず「おいしそう!」と叫んでしまいたくなるが、出演者の、その料理に箸を付け、食べる様子が映し出されるのを見てがっかりしてしまったことが何度もある。


 「うわーっ、すごい!」「ううーん、おいしい」の言葉を繰り返すばかりの語彙の貧弱さにもうんざりするが、それ以上に、親指と人差し指だけで箸を持ったり、小指以外の4本の指で箸を握ったりという下品とも思える箸の持ち方で食ベている様子をみると、おいしい料理もまずく思え、見ている私たちを不愉快にさせる。


 食べ物を口に運ぶ、「たかが箸」ではないか、何をそう目くじら立ててと言われそうであるが、そうではあるまい。手前の1本(静箸)を親指の付け根と曲げた薬指と親指第2関節の腹で固定し、もう1本(動箸)を親指と人差し指と中指でつまむようにして持つ、この箸の正しい持ち方は、可動範囲が広く、無駄な力を使わず、見た目もきれいで、疲れない箸の持ち方であって、これは、長い和食の歴史の中で、磨かれ、つくりあげられてきたものである。その意味で、正しい箸の持ち方に日本の食文化が息づいていると言えるのではなかろうか。


 なぜ正しく、美しい文字が書けないか


 4月、大学での最初の授業では、「本授業科目に期待すること」の題で600字程度の文章を書かせることにしているが、読んでがっかりすることが多い。それは、書かれた内容ではなく、書かれた文字が汚く、読みづらいからである。 薄くて小さ過ぎる文字、漢字に比べ仮名が大きく、しかも、いわゆる「丸文字」、明らかに筆順が違って不格好な文字、こうした文字の行列を見ていると、ひょっとして、この学生たちの書字力は、小学校時代から一向に伸展していない、いや、それ以下に落ち込んでしまったのではないかと疑いたくなってしまう。


 なぜ、こんな文字を書くのだろうか。その要因は、折れやすいシャープペンシルの多用もあるだろうが、多くは、鉛筆の正しい持ち方が大学生になってもなお身に付いていないからではないかと思われる。


 親指と人差し指で筆記具を抱えて書く者、中指を筆記具の上に出して薬指を支えにして書く者、筆記具の芯、根本に近いすれすれの部分を堅く握って書く者など、正しく筆記具を持たず書いている者が、半数近くいるのである。箸が食べ物を口に運ぶ道具だということと同じく筆記具もまた文字を書く道具であれば、どのような持ち方であれ、文字として書ければよいではないかという考え方なのであろうか。


 しかし、筆記具もまた、正しく、美しく文字を書くためにどのように持つのがよいか、長い歴史の試行錯誤を通して固まってきたのであってみれば、正しく筆記具を持ち、正しく美しい文字を書くということもまた、日本文化の正しい継承なのである。

 

 豊かな言葉の遣い手に


 箸は口に食べ物を運ぶ道具、筆記具は文字を書く道具に過ぎないという考え方は、よりよく食べ物を口に運び、より美しく文字を書くべく努力してきた先人たちの苦心や努力、我が国の文化、伝統を無にするに等しく、歴史的、社会的存在としての我々をも否定することにつながりかねない。
 言葉についても同じである。言葉を意思伝達の道具であるとする考え方もないではないが、それだけでは、言葉を愛し、言葉を大切にしようとする心は生まれてこない。


 ところで、豊かな言葉を思うとき、いつも心に浮かぶ詩がある。詩人川崎洋さんの「ことば」と題した詩である。


 山という字を描いてみせ/川という字を描いてみせ/山という字は山そのものから/川という字は川そのものから/生まれたのですよ/と説明すると/横文字の国の人々は感動する
 このあいだ 岡山で/(ひぐらし)を/(ひぐれおしみ)と呼ぶ人々がいる/と知って胸が鳴った/人を打つことばが日本のことばの中にある/そのことに/日本語の国に住む私は感動する


 豊かな日本語への讃歌である。


 「ひぐらし」を「ひぐれおしみ」と呼ぶことの中に、夕暮れに鳴く蝉「ヒグラシ」への哀惜と日暮れを惜しむ人々の思い、そして、夕日が山際に沈みつつある山里の夕焼けの美しさ、豊かな自然への感謝といった、人々の豊かで優しい心が含まれているのである。


 豊かな言葉とは、豊かな心と同義である。これからの子どもたちに、こうした豊かな言葉の遣い手になってほしいと思う。


 そのためには、言葉もまた箸や筆記具が単なる道具、手段ではないのと同じように、言葉そのものに思いを寄せ、言葉を慈しみ、言葉を大切にすることでなければならない。なぜなら、言葉は、箸や筆記具以上に、気の遠くなるような時間のなかを、何世代もの人々が言葉に思いを込め、言葉を磨き、言葉を紡いで、今日の我々に遺してくれた貴重な文化そのものであるからである。


 箸を正しく持つことによって、料理がおいしく食べられるように、筆記具を正しく持つことによって、正しく、美しい文字が書けるように、言葉を愛し、言葉を大切にすることによって、豊かな言葉の遣い手が育っていくのだと考えている。

 

                    (『日本教育』№367所収)

 

 

おうちの方へ特集号 2008.8.27


手持ちの力を使っていまを生きる


 この休みに、「子どものリアリティー 学校のバーチャリティー」という浜田寿美男さん(奈良女子大学)の講演がありました。浜田さんは発達心理学が専門で、25年ほど前に出会って以来、私の教育観や子ども観を支えている学者の一人です。


子どもは大人に守られているだけか


 講演の冒頭、浜田さんは「子どもは大人に守られているだけなのか。」と問いかけられました。そして、「人類の歴史を10万年と少なめに見積もっても、子どもが専ら守られる存在になったのはここ40から50年のことだ。それ以前の99950年間は、大きくは大人に守られながら、子どもも何かを守り、何かを担って生きてきた。」「子どもが変わったという人がいるが、変わったのは子どもが生きている環境だ。」と続けられました。生活の中に子どもの居場所がなくなったことが、子どもをめぐる問題の根底にあるというのです。


なぜ力を身につけるのか なぜ学ぶのか


「力を身につけるのは、それを生活に使うためである。」歩く力が身につけば、それを使って歩行の世界が広がります。言葉をしゃべる力が身につけば、それを使ってコミュニケーションの世界が広がります。学ぶことの原点がここにあり、浜田さんはこれを学ぶことの「実質的意味」と言います。


 その上で、「将来のために力を貯めることは可能か」と、浜田さんは問います。使わない力は衰える(これを「廃用の原則」と言うそうです)ので、将来のために力を貯めることなどできないと言うのです。「力は身につけた時に使って根を下ろす」と話された言葉が印象的でした。


 ところが、学校で身につけることは学年が上がるにつれて「実質的意味」を失っていきます。そして、学校で貯めた力は学校で試されます。ここでの学びは、学校制度のはしごをわたる「制度的意味」でしかないと浜田さんは指摘します。


学校制度のはしごをわたる


 さて、個別懇談でお話しすることというのは、おおよそ「制度的意味」における学びについてということになります。それは本来の学びではないとしても、今後数年間子どもたちは「学校制度のはしご」をわたる生活に身を置くことになります。


 学びが世界を広げてくれることがあります。例えば難しい算数の問題が解けた時、算数のおもしろさに目覚めることがあります。順序立てて問題を解決していくことのおもしろさに気づくこともあります。これもまた、「実質的意味」をもつ学びの世界なのです。私の「K塾」もそこを目指しているのですが…。ご家庭でも、子どものそうした学びを励ますことはできないでしょうか。


 学んだことが成績につながればいいのですが、結果が出ないこともあります。子どもは自分の居場所を持てなくなりがちです。他方、成績がいいのに学ぶことの意味を見い出せず、生きることをトータルに支える場を見失ってしまった子どももいます。田原本の事件や岡山の電車突き落とし事件などは、後者の事例です。--もしも子どもが「学校制度のはしご」をうまく渡れなくなったら、叱責するよりも学校制度に傷ついた心を包み込んでやってほしいと思います。


 発達は目標ではなくて結果だというのが、浜田さんの発達観です。「人は自分の身体でもって〈ここのいま〉を生きている。身体でもって〈ここのいま〉を生きるには、この身体に備わった手持ちの力を使って生きる以外にない。明日新しい力が身についているかも知れないが、明日身につくかも知れない力で今日を生きることはできない。手持ちの力を使っていまを生き、できないことは適当にやりくりする。そうして手持ちの力を最大限に使っているうちに次の新しい力が身についてくる。発達とはそういうものだ。」「手持ちの力を使って何かをやり、それでもって周囲が喜ぶ。またそうして周囲が喜んでくれることが自分も嬉しい。そういう感覚が生まれた時、子どもは居場所を得て自らの存在価値を自ら認めることができる。」というのです。


 私たち大人の子どもに向ける目線が変わり、手持ちの力を使える場所を提供できたら、子どもの生きにくさもいくらか和らぐに違いありません。


 今はまだ差し迫った問題ではないでしょう。だからこそ冷静に見つめ、考えてみたいと思います。