教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

保護者とは子育て協働の関係でありたい②

2005年、6年生のクラスで保護者に届けたメッセージを紹介します。

 

この年の6月1日、長崎県佐世保市に住む小学6年の少女がナイフで同級生を刺し殺すというショッキングな事件が起きました。

その後、「いのち」をテーマにした発信を続けました。

 

おうちの方へ特集号 2004.6.9


佐世保事件」を考える①


 1日に佐世保で起こった事件は、同じ6年生の担任として、大きな衝撃を受けました。いたずらに不安を募らせることもないのですが、一緒に考えたい問題がいくつかあります。


 ここに紹介したHさんの日記は、事件翌日の2日に書かれたものです。クラスの子どもたちの一般的な受け止め方を代表する内容です。

 私は、同じ六年生の女の子がカッターナイフで仲良しだった六年生の女の子を切ったと聞いて、とてもびっくりした。同じ六年生なのにどうして切れるのかなあと思った。しかも、その切られた子が死亡した。どうしてそんなことができるのかなあと思った。人を殺したところで何もならないのに、ただ親とはなれなくちゃいけないのに、どうして自分の手で人を殺せるのかなあと思った。私だったらぜったいに殺すことなんて思わない。何のために殺すのだろうと思った。

 

 「人を殺したところで何もならない(何も解決しない)」というのは、修学旅行に向けた学習の中で子どもたちが学び取った「命の哲学」です。さんまさんが熱演した『さとうきび畑の歌』のビデオを見たり、被爆体験のお話を聞いたりすることで、子どもたちは確信に似た思いを持つようになりました。その意味では、私は子どもたちを100%信頼しています。


 しかしながら、佐世保の少女だって、理性や理屈の領域では我がクラスの子どもたちと何ら変わらなかったに違いありません。少女にナイフを握らせ、その手を振り上げさせたものは何だったのでしょう。さまざまに抱く思いとナイフを握る行為の間には、超えがたい壁があるはずです。少女にその越えがたい壁を越えさせたものへの想像力が、私には及びません。衝撃の大きさは、そのことに起因しています。どうか親子で、加害少女の心の有り様を語り合ってみてください。


 ところで、今回の事件ではインターネットのチャットがクローズアップされました。5日の『朝日新聞』社説(「ネットの海にただよう子」省略)と4日の『毎日新聞』尾木さんの記事(「私はこうみる 佐世保小6女児殺害」省略)をご覧ください。今現在チャットを利用している子どもはいませんが、携帯のメールを使うようになるのはもう間もなくのことですし、交換日記やメモを回すことも同様のことだと考えれば、遠い出来事ではありません。「口で言えないこと(特にマイナスなこと)は書かない」という最低限のルールを確立しなければなりません。そんなことも、ともに語り合っていただきたいと思います。

 

 

おうちの方へ特集号 2004.6.10


佐世保事件」を考える②


 「佐世保事件」の関連記事として、6日の『朝日新聞』に下のグラフが掲載されていました。

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 同じアンケートを実施してみました。(アンケート結果のグラフ省略)グラフの「1」が「とてもある」になります。人数が少ないですので、単純な比較は無意味ですが、全国調査と似た傾向は見られました。


 一見とても仲良しに見えている子どもたちの関係が、実に脆く危ういガラス細工のようで、そのことが気になります。何らかの原因で「仲良し」の関係が壊れそうになった時、それを親や教師も含めて誰にも言えないでいるとしたら、佐世保の少女の問題は決して遠くの特別なことと言い切れません。


 子どもたちに自分を一歩引いたところから見られる力、AがだめならBという選択肢もあるさと思える力を育ててやりたいものです。「人生は石っころだらけで、これを越えていくから大変なんだということを、どんな小さい子にも教えておきたいです。」という永畑道子さんの言葉をもう一度噛み締めたいと思います。

 

 

おうちの方へ特集号 2004.6.30


子どもの「生活」と「気持ち」にズームイン


 6月27日の朝日新聞に、日本子ども社会学会が行った子どもの生活と気持ち調査の結果が載っていました。

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個々の子どもを全国平均に合わせる必要など全くないのですが、我が子の有り様を客観的に見つめ直す指標にはなるかと思います。小学校生活最後の夏休みを控えて、親子で一度じっくり語り合う時間をもってほしいと思います。

 

 

おうちの方へ特集号 2004.9.16


「がんばらない」「あきらめない」


 昨晩、テレビで「がんばらないⅡ」というドラマが放映されていました。もっとも私自身は、放映時間中にこれを書いていますので見ていませんが…。


 長野県の諏訪中央病院に鎌田實さんというお医者さんがいます。さだまさしの名曲「風に立つライオン」のパロディーのような曲、「八ヶ岳に立つ野ウサギ」のモデルになっているお医者さんです。(と言っても、よほどのさだファンでなけりゃそんなこと知ってる人いませんよね。)さて、その鎌田先生が2000年9月に出した本『がんばらない』と2003年1月に出した本『あきらめない』が、昨晩のドラマの原作です。


 私は2001年の春、移動中の車で聞いたラジオのインタビュー番組で、鎌田先生の名前と『がんばらない』という本の存在を知りました。早速、本を買い求めました。近年、どうも涙腺がゆるんできているようで、私は目を真っ赤に腫らしながら、それでも活字を追い続けました。鎌田先生は優れたお医者さんなのでしょうが、門外漢の私には分かりません。しかし、医者である前に、鎌田さんがすてきな人であることは私にも分かります。目の前の死の淵にある患者さんに注がれるまなざしの優しさに、私は心が震えました。


 鎌田先生は、一貫して「弱者の立場に立った医療」を求めてこられました。「医療」の部分を「教育」「子育て」と言い換えた時、私はドキッとしました。そんな「ドキッ」の一部をみなさんと共有したくて、紹介させていただきます。

 

 ぼくら医療者が重傷な患者さんや末期の患者さんに、つい口に出してしまう言葉「がんばろう」「がんばりましょう」この言葉に勇気を奮い立たせる患者さんがいる反面、精いっぱいがんばって、がんばって末期をむかえてきた患者さんにとって、がんばれという言葉はとても傷つけることがある。最初、「がんばらない」という文字を見たとき、ぼくははっと胸をつかれた。知的ハンディをもった西沢美枝さんたちの「がんばらない」「生きている」「ありがとう」「ぼくのたましい」という作品は、すごい迫力をもってぼくらの医療のあり方に問題提起をする。多くの患者さんたちからも「不思議な勇気を与えられる」と声をかけていただいた。「あなたは、あなたのままでいい」「競争しなくてもいいですよ」と語りかけているようだ。医者や看護婦がどんなに丁寧でやさしくても、病院というところにいるだけで、患者さんは緊張している。ぼくら医療スタッフががんばりますから、あなたはあなたのままでいてください、そういう気持ちをこの「がんばらない」という書に託したい。

                    (『がんばらない』より)  

 病院のスタッフが「治す人」の役をこなし、患者が「治してもらう人」を一方的に演じるのではなく、患者さんに内在している治る力を増強し、表へ引き出し、患者さん自身も「治す人」になることができないだろうかと夢みてきた。

                    (『あきらめない』より) 

 

 「病院スタッフ」を「大人」に、「治す」を「育てる」に、「患者」を「子ども」に置き換えたら…。

「大人(親、教師)が『育てる人』の役をこなし、子どもが『育ててもらう人』を一方的に演じるのではなく、子どもに内在している育つ力を増強し、表へ引き出し、子ども自身も『育つ人』になることができないだろうかと夢みてきた。」

 含蓄があり、深いですねえ。

 「がんばろう」、と言っている間は1本の道しか見えない。その道から逸(そ)れてはいけない、落ちこぼれてはいけないという意識が働きつづける。たくさんのストレスを背負う。心が疲れる。ところが、「がんばらない」と、「ない」という積極的な強い口調の2文字をつけて言った瞬間、道は1本ではなくて、3つも4つもあることがわかる。出世すること、世の中で成功すること、有名になることだけが人生ではないと気づく。ぼくはぼく自身に小さな声で、「がんばらなくてもいいよ」と声をかけているのに、あるとき気がついた。人生には、行く道がいくつもある。きっと、そうなんだと思った。「君は、そろそろ違う道を歩んでみたいと思っているのだろう」と、もう一人の別のぼくがぼくにささやいた。そのとき、ぼくは、違う景色を見ながら、違う道を、違うスピードで歩いてみるのもいいなあと思った。

                    (『あきらめない』より)

 

 

 


おうちの方へ特集号 2004.10.28


「いのち」の教育を子育ての軸に


 「いのち」の教育を今年1年のテーマにしようと決心させたのは、6月1日に長崎県佐世保市の小学校で起こった事件でした。6年生の少女にナイフを握らせ、その手を振り上げさせたものは何だったのでしょう。さまざまに抱く思いとナイフを握る行為の間には、超えがたい壁があるはずです。少女にその越えがたい壁を越えさせたものへの想像力が、私には及びませんでした。私は、そのことに大きな衝撃を受けました。


 折しも私たちは、修学旅行を終え、平和について学んだことのまとめをする時期を迎えていました。そこで、まとめの視点を「いのちの大切さ」に集中させることにしました。7月の授業参観で見ていただいたのが、それです。


 国語科の『海のいのち』は、「いのちのつながり」について考え合う教材として位置づけました。ご存知のように、しっとりと文学教材に浸るなどという雰囲気とは程遠いクラスでしたので、夏休み中からあれやこれやと「作戦」を考えて授業に臨みました。授業の雰囲気は、「授業通信」でおおよそ感じ取っていただけたかと思います。子どもたちの読みは、私が思っていた以上に深いものがありました。「こころの琴線」という言い方があるのですが、しなやかで感性豊かなこころの震えは、実にいい音色を響かせてくれるものです。(私は、「こころの琴線」がどのような状況にあるのかということが、先の事件の少女について考えるカギになると思っています。)


 私たちは今、総合学習の時間に映画を作る計画を進めています。「渋染一揆」という江戸時代末期の出来事を教材にして、「いのちの重さ」をテーマにした映画に仕上げたいと考えています。今はシナリオを書く前段で、テーマに迫るための討論を重ねているところです。2月21日に最後の授業参観が予定されていますので、その時に上映できるように制作したいと思います。


 「いのち」を子育ての軸にするというのは、「命を大切にしなさい」と唱えることではありません。「やさしく見つめる」「ほほ笑む」「話しかける」「ほめる」「触る」--これは、発達障害の子に接するポイントとして日曜日の朝日新聞に紹介された記事ですが、「心の安定」や「心地よさ」はどの子にも共通のものです。そして、これが「琴線」を育てる土壌にもなるし、生きていくエネルギーにもなるのです。家庭に求められているのは、まさにこの部分だと私は思います。


 11月1日の学級懇談で語り合いましょう。

 

 

おうちの方へ特集号 2004.11.29


「安全」を守るために知恵と力を

 

帰り道がこわい

 最近、一年生の女の子が車に連れ去られ、殺されたという事件が起こった。しかも、別の所でも同じように車に乗せられそうになったが、逃げて何とかだいじょうぶだった。さらにまだ逃げているという。

 私は、月曜日、帰る前に教頭先生に呼ばれて行くと、「○○あたりで刃物をふりまわしている変な人がいると聞いたから、気をつけて帰りなさい」と言われた。私は、だから最近帰るのがとてもこわい。そして、気を付けやと言われても、どうしたらいいのかわからない。防犯ブザーを持っていれば、それでいいのだろうか。それで、自分を守れるのだろうか。私はわからなかった。帰り道、友だち2人と私で話していた。でも私は、なぜ、そんな殺すなどひどいことをするのだろう、お母さんやお父さんはいかりでいっぱいだろうなあと思った。


 社会が病んでいるとき、社会的弱者である子どもや老人が最も大きな被害を受けがちです。今日の状況を考えれば、田舎が都会に比べて安全だという保障はありません。現在行っている集団下校は、こうした状況下での対策の一つですが、それとて万全ではありません。Aさんが書いている不安は、どの子にも共通の思いでしょう。私たち大人は、少しでも子どもたちの不安を和らげてやることに、力を注ぎたいと思います。12月7日の懇談会では、学校ができること、家庭ができること、地域ができることを、一緒に考えたいと思います。

 

 

おうちの方へ特集号 2005.2.21


映画「人として」を2倍楽しくご覧いただくために


 ようこそ、「人として」上映会にお越しくださいました。映画を2倍楽しくご覧いただくために、撮影秘話などをちょっと紹介してまいりましょう。

 

①~⑧ 映画シーンの解説 省略


⑨ラストシーンは、映画の本編を演じ終えた子どもたちが映画から何を学んだかをテーマに、作り上げる計画をしていました。正月に本編の編集をしながら、予定の変更を決意しました。それは、12月16日の音楽発表を是非とも記録として留めたいと思ったからです。紆余曲折はありましたが、音楽発表を通して子どもたちがとても大切なものをつかみ取ってくれたと感じたからです。どんなシナリオを書き足しても、あのハーモニーを超える演技はできないでしょう。「私たちの…」は、テロップだけということになってしまいました。映画作品としては物足りなさも感じますが、私たちは作品を作るために取り組んだのではなく、取り組む過程で何かを学び取ってほしいと願って制作してきました。子どもたちの歌声とテロップの文字から、子どもたちの学びと育ちを感じていただければ幸いです。