教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する②

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する①で紹介している「ヒロシマのこえが聞こえますか」の続きです。

 

 

ヒロシマのこえが聞こえますか

 

  2.ビデオ「ヒロシマのこえがきこえますか」

 

 ヒロシマで学んだことを子どもたちの心に残したい。そう思いながら20日あまりが過ぎていた。その問、旅行記を綴ったり、一番心に残っている場面をさし絵入りの詩の色紙に書いたりはしたが……。確かに修学旅行の思い出は子どもの心を離れないだろう。しかし“ヒロシマ”が、夜の枕投げと同列であっていいのだろうか。いや、“ヒロシマ”が思い出であっていいのだろうか。


 “ヒロシマのこころ”をもっと子どもの側に引き寄せたい。それには修学旅行で出会った下原さんの被爆体験に触れ直すしかないとぼくは思った。あれやこれやと思案するうちに、ビデオづくりを思いついた。そして次の瞬間ぼくはためらった。ビデオづくりがどれほどの時間を要するのかも、どれほど大変なことかも知っていたから。しかし、ぼくはこれにかけてみようと思った。

 

(中略)


 さて、11月下旬のある日のこと。ぼくは、「修学旅行のビデオをつくってみやへんか。」と、子どもたちに語りかけてみた。こういう時の子どもたちの反応は実にはやい。衆議一決。内容は下原さんの被爆体験をまとめたものにすることに決まった。


 続いての学級会で、ビデオのテーマを話し合った。一番心に残っていること、一番下原さんが伝えたかったと思うことを出し合った。以下、子どもから出されたものを挙げると


○ 原爆にあったあと、母親は決して我が子を捨てなかった。たとえ黒こげになって死んでいても、その子を抱いて逃げたということ。(ヒロシマのこころ、母の愛)


○ 下原さんが友だちを捨てて逃げたということ。逃げる時、死体を足でけったこと.(原爆が人間の心をうばった。)


○ 下原さんのお父さんが、下原さんを助け出し、長い距離を背負って歩いた。お父さんは戦争で足を悪くして家に帰っており、けがの直りかけに無理をしたため、一生足が不自由だったこと。(家族の愛)


○ 原爆にあったあと 外に逃げた被差別部落の人は、冷たい仕打ちをうけ、強い放射能の残る広島に戻り、数多く亡くなったこと。部落の人や朝鮮の人の死体が最後まで放っておかれたこと。(原爆の地獄の中でも、死体にさえ差別があった。)


 次には、ビデオづくりの手順であるが、脚本は、子どもから出されたテーマを中心にしてぼくが書くことにした。話にそっていくつかの場面を絵に描く。それをビデオ撮りして編集したものに音声をアフレコするということにした。


 12月に入って絵を描く作業を始めた。子どもたちを3人ずつのグループに分け、そのグループで一番描きたい場面を選んだ。話に合わせて場面を構成するというのは難しく、しかも実際は目にすることのできない40年前の世界である。下絵を書くだけで相当の時間を要してしまった。おまけに学級で自由に使える時間は限られているし、やっと1枚目の絵がで釆上がったころには、2学期も終わろうとしていた。


 脚本を書くというぼくの仕事は、学期末の雑事に追われて一向に進まず、結局は、正月の宿題になってしまった。少々お屠蘇の入りすぎた頭を冷やしながら、やっと書き上げた脚本は、原稿用紙16枚分といういささか長いものになった。


 3学期。厚みのある脚本のコピーを子どもたちに手渡し、いよいよ作業にも熱が入る。この当時のことを振り返ってある子がこう言っている。
「下原先生の話に基づいてビデオづくりをすると決まった時には、私たちなんかできるのかなあと心配でした。シナリオを渡してもらったときは、その心配がもっと大きくなりました。だけど、がんばろうという気持ちも大きくなりました。」


 なかなかうまく描けなくて何度もやり直したり、新たな場面を描き足したりしているうちに、2月になっていた。描いた場面はテロップも含めて36になった。(実際の撮影ではその他に図表や写真を11枚使った。)


 2月に入って間もなく、“声の出演”の配役と、係の仕事を決めた。全員が声の出演と裏方の仕事の両方に必ずかかわるようにした。


 配役が決まると、さっそく読み合せである。助監督がストップウォッチ片手にタイムをはかっている。


 そして、2月12目。いよいよビデオ撮りだ。みんなが2か月半近くもかかって描き上げた絵をビデオに収める。撮影係の子も、助監督の子らも、それを見守る子らも、1枚1枚の絵に視線が集まっている。どの絵もそれ自体がすぐれた作品なのだ。黒こげの死体を描きながら、炎の中を逃げまどう人を描きながら、40年前のうめきを、叫びを聞いたに違いない。


 2月14日。録音。36人の子どもたちが入ったスタジオはシーンとしている。まずは練習。感じを出すのはなかなか難しい。ある子はこう語っている。「ビデオの中ではあまりうまくしゃべれませんでした。『あっ、B29だ』というところでは、7、8回カットされ、誰かに交わってほしいと思いました。」「声の録音は、間違わないか、とちらないかと、本番前何度も読み直したりしました。もう心蔵がドックンドックン激しくなって、声はふるえそうになるので、すごくあせりました。」そして、本番。録画係の子がカセットデッキのキーに指をかける。助監督の右手の指がストップウオッチのボタンに触れ、上に上げていた左手が下りようとしている。マイクの前に立った出演者もスタッフも緊張の一瞬である。こうして、2時間あまりで録音は終わった。


 効果音は、カット毎に音楽を選んで入れる予定であったが、準備が間に合わず、結局全編にストラヴィンスキーの「春の祭典」を使うことにした。これについては、僕の独断だとあとで音楽係の子らにしかられることになるのだけど。

                           (つづく)