教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④

このシリーズの①から③で紹介してきた「ヒロシマのこえが聞こえますか」の原点は、被爆体験の講演です。

 

被爆体験に限らず、これまでに10本あまりの講演の「テープ起こし」をしてきました。1時間30分の講演を文字化するには相当の時間と労力を要しますが、それに見合う意義は十分にあると私は思っています。

アナログ時代のそれはまさしく「テープ起こし」で、 カセットテープを再生したり巻き戻したりしながら活字にしていきました。ボイスレコーダーを使うようになって、いくらか作業は軽減されました。

 

ヒロシマのこえが聞こえますか」に登場する下原隆資さんとは20年ほどお付き合いさせていただき、何度か講演もしていただきました。今回は、1999年12月9日に教職員を対象に行った講演会の記録を紹介します。

 

 

反戦反核・反差別
21世紀につなぐヒロシマからのメッセージ

 

                下 原 隆 資 さ ん(元・被爆教職員の会)

 

■育ったところの言葉で話す


 実は私は話をする前にいつもお断りをするんですけれども、広島の言葉で話をします。自分のことを話をするときには育ったところの言葉しか使わないんです。これは大学生の時にそう決めた訳です。理由を言いますと、大学生の時に友だちといっしょに旅行しました。汽車に乗って旅行しました。3人で乗ったんです。汽車の中で実は、岡山県の方ですが、乗っていた人に、その当時の汽車は4人がけのボックスになっていて、3人ですから1人あいているわけです。そこに座ったんですが、座ったとたん私の顔をみてどう言ったかというと、「失礼ですが、あなたは何でケガをしたんですか」と聞いたわけです。私が「これは広島の原爆ですよ」と言った瞬間に態度がものすごく変わりました。「おいおまえ、向こうへ行け」と言ったんです。「何でですか」と言ったら「おまえの顔がきたないから。おまえ放射能出すから」と言ったんです。


 実はそのことにはその人の理由があったと思います。後に考えたんですが、広島、長崎に原爆が落とされ、そして戦争が終わったときに、アメリカの大統領が何と言ったかというと、「広島、長崎に落としたのは原子爆弾放射能がいっぱい出ていた」と言ったんです。そこまでは正解です。「その放射能は残るだろう。だから70年間広島と長崎には草も生えん、木も生んだろう」。日本中の新聞に書いてありました。私だって最初そう思いました。ですから広島が、戦争が終わってちょっとしてから放射能が残っていない。さらに広島の町には1ケ月もたたないうちに草も生えて、焼け焦げた木から芽がでて花が咲きました。夾竹桃の花が最初に咲いたんで今でも広島の花になっとるんですが、だから放射能が残ってないと分かったんです。


 ですがその人はそう思っとったんです。戦争が終わって10年ぐらいは、旅行しますと時々そういうふうに「近寄るな」と言われました。そのときもそう言われたんです。ものすごく悔しかったんですが、そのときには私自身はけんかはいたしませんでした。警察と父親に約束をしとったんです。


 と言いますのは、高校の時に、アメリカから来た調査団に連れて行かれて体を調べられて、どう言われたかというと、「おまえには白血球が1900しかない。5300から6000が正常値。おまえ生きとるはずがない」と言われて、「治してくれ」といろんな医者に言ったが治す方法がない。放射能による場合は治療法が0です。すぐ死ぬるだろうと言って、ものすごく荒れたんです。荒れた結果が何回か警察のごやっかいになって、最後に父親が来て、「二度とこの子にはけんかはさせん。わたしの責任です」と言って父親が責任を全部もってくれました。そのかわりけんかはしないということを約束をしとったんですから、もうけんかはできんでしょう。


 そこでおまえなに言うんじゃ言うてやりたかったんですが黙っとったんです。そしたらとなりにおった友だちが立って、相手を怒鳴りつけてくれました。それまでは、私は広島の言葉は乱暴で恥ずかしい言葉と先生に教え込まれて、そう思うとったんです。中学校の時には使っちゃいけない言葉が20いくつありました。だからなるだけ使わないようにしてきたんです。ところが彼がどなったのはその乱暴と言われる言葉ですね。「おんどらなにぬかすんじゃい」と言うと、相手の方がびっくりして逃げてくれたわけですね。そのときに思ったのはですね、自分の心が一番表せるのは育ったところの言葉なんだということです。自分のことを話すときは育ったところの言葉で話すんだ。大事にしようと。ですから私は広島の言葉を話し言葉にできたんです。のちに教員になってそう思いました。


 もう一つ決めたのは、もうひとりの友だちが「おまえそんなこといわれてだまっとるなや。抗議せえや」言うたんです。私が「抗議したらけんかになる。わしゃ今けんかしたらいけんのじゃ」言うたら、彼が「だいじょうぶじゃ。もしおまえがけんかになりそうだったら、わしら二人でかわりにしてやるよ。おまえなかまじゃ」言われて、「なかまやいうたらどういう意味じゃ」言うたらですね、「なかまというたらお互いにどちらかが困っとるときに自分が損をしても相手を支えるのがなかまや。だからわしらが代わりにけんかしてやる」言われてですね、なかまをたくさんつくろう、そう思いました。

                           (つづく)