教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する①

私は在職中に2度、ヒロシマ被爆体験の記録化に取り組みました。

 

1度目は1985年のことで、「ヒロシマのこえがきこえますか」というビデオを作りました。

2度目は2007年で、「めっせえじ」というDVDにまとめました。

両者に共通しているのは、ビデオ紙芝居の手法を使って映像化していることです。内容からして演劇化するのが困難だからです。

一方、両者で大きく異なるのが制作機材です。85年のころはアナログ時代であるのに対し、2007年はデジタル時代です。

 

アナログ時代のビデオ作りは、いまの若い方たちには想像できないくらい大変な作業でした。それでもやろうと思ったのは、被爆体験を遠い昔の遠い場所でのお話という地点から子どもたちの側に引き寄せたいと願ったからです。そのことは、「ヒロシマのこえがきこえますか」というタイトルに表れています。

 

デジタル時代になって、記録や編集はずいぶん楽になりました。20年の時間を感じます。そして、20年のときの流れは、「思い」にも変化をもたらしました。DVDのタイトルを「めっせえじ」としているように、後世に伝えたい、そのために遺したいという思いが強くなってきました。それは、被爆体験を語ってくださる方の高齢化と深く関わっています。

 

 

今回は、1985年の取り組みを紹介します。

1986年、ある雑誌のために書いた原稿です。 

 

ヒロシマのこえが聞こえますか

 

  1.ヒロシマ

 

 私は、命のある限り二つのことを一生懸命にします。一つは平和運動です。戦争に反対し、平和を守っていくことです。もう一つは解放運動です。差別をなくすことです。差別がどんどん強められていったときに戦争は起ります。ですから、この二つのことをやっていきます。しかし、次はみなさんの番です。みなさんがしっかり頑張る番です。


 1985年11月1日、広島の被爆教師下原隆資さんが、子どもたちを前に言われた最後の一節である。


 A小学校が修学旅行で広島に行くようになって10年あまりになる。平和公園に立ち寄るだけであった状態から、6年間の平和、人権学習の集大成の場としての位置づけを持つに至ったのは、4年前からである。その前の年、ぼくにとっては初めての6年担任の年、単に広島へ行くだけでは学べないのだということを思い知らされてしまった。つまり碑や資料館の展示物は、貴重であるが所詮は“物”でしかない。旅行前の教室での取り組みが進めば進むはど、すき間風を感じてしまうのだ。最も象徴的であったのは、バスガイドの「不幸な過去がありましたが、今はこんなにりっぱな街になりました」という一言であった。おまけにこのガイドさん、広島駅に近づくと、西城秀樹の経営する喫茶店の位置まで教えてくれる親切ぶり。平和学習という雰囲気とは程遠いものであった。


 その次の年から、自分の足で確かめ、自分の自で見、自分の耳で聞く旅行づくりを目指してきた。それから4年目。


 6月には学級に「つるの会」をつくり、千羽鶴を折りはじめた。2学期に入ると修学旅行実行委員会を組織し、旅行の日程を組んだり、学習の準備をすすめた。実行委員会では機関紙を発行し、学年や必要に応じて全校に配布した。


 修学旅行は11月の1日、2日だった。広島駅から路面電車平和公園へ向かい、原爆ドームや爆心地を見学したあと、原爆資料館と平和記念館を見る。そのあとはグループでのフィールドワーク(碑めぐり)である。それぞれが思い思いの碑を訪ね歩きながら、千羽鶴をささげた。ぼくの学級だけでも1万5千羽の鶴が折られた。そして旅館へ行って下原さんの被爆体験を聞き、再び夕暮れの平和公園に戻って慰霊祭を行う。ここで子どもは自らの決意を述べるのだ。こうして1日目が終わり、翌2日は、宮島へ渡ってみやげを買ったりして過ごした。


 旅行後、実行委員会は戦争展に取り組んだ。それは、修学旅行のまとめの場でもあり、下学年の子らに平和の問題を考えてもらう場でもある。特に戦争を扱った絵本の読み聞かせには連日多くの低学年の子らが集まってきた。期間中、のべ1000人をこす盛況ぶりであった。

                           (つづく)