教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑭

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑪から紹介しています講演の続きです。 

 

 

 

私の被爆体験~広島からのメッセージ~


                       森本範雄さん

1.被爆前の日常生活や当時の模様、当時の直前の様子

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑪

2.爆発の状況、周囲の状況、負傷者の状態等

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑫

3 収容所内での生活


(1) 生き地獄のような生活

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑬ 

 

 (2) 尊い人間愛に触れ、生きる希望を持てたこと


 一人の兵隊さんがやって来た。「何だきさま、騒々しいヤツだ。静かにしろ、うるさい。」 「うるさいどころでない。耳の中にウジ虫わいてきた。とってほしいんです。」「何を言っている。おれにウジ虫なんかとれだとお。道具もねえ、灯りもねえ。どうしてそんなもんとれるんだ。冗談言うんじゃねえや。」チャキチャキの江戸っ子弁の威勢のいい兵隊さん、てんで私のいうことを受け付けてくれない。が、実はその兵隊さん、口は悪いが気のいい兵隊さんだった。さんざん悪口きいときながらポケットからマッチの棒を取り出した。薬の付いた丸い方を耳の中に入れて、私が痛がるのもお構いなしにグリグリグリグリかき回した。マッチ棒の先にくっついた小さなウジ虫を耳の外に引っ張り出して捨ててくださる。根気よく長い時間かかって繰り返し繰り返し取ってくださった。耳の中の音がなくなった。「これで、ウジ虫どもに脳みそ食い荒らされて死なずに済んだ。また生き延びることができる。」そう思って、その口の悪い兵隊さんに大変感謝しました。原爆そのものももちろん怖かった。けど私にとって、耳の中にわいたウジ虫は同じぐらいに怖い存在でした。

 

(3) 放射能の為に突然亡くなった人を見て、放射能の怖さに震えたこと


 私のすぐ隣へ5人連れの家族がやってきたんです。4人までは私と同じように大やけど、大けがをして動けない。娘さんが一人いた。たぶん私と同い年の17、8才ぐらいだったと思います。娘さんはどこもケガしてない。元気なんです。ですから一人で家族4人の看病をする。隣で独りぼっちで私が寝込んでいたので私の看病もしてくださる。私の飲み水をくみに行ったり、食べ物を探しに行ったり、しまいにはあの血とウミとウジ虫でドロンドロンのきたない身の回りの世話まで全部、いやな顔一つせずにしてくださった。ありがたかった。ありがたいと同時に、うらやましかった。私も早くよくなって、あの娘さんのように自由にどこへでも動き回れる体に早く戻りたいって、あまりはっきり見えない目で娘さんのことをうらやましく眺めていたんです。
 ある朝、例によって食事の支度かなんかで出かけていった娘さん、帰ってこない。お昼頃になってよその人に背負われて帰ってきた。私の横へ下ろされた。聞いてみると、朝からトイレの前で倒れ込んでいたそうです。その時分、トイレの前であろうと玄関の前であろうと、人が倒れているの何の不思議もない。歩いていて突然倒れてそのまま亡くなる人、いくらでもあったんです。誰も気にしません。けど娘さんは、「誰か連れて帰ってほしい。」そう言ったのを聞きつけて、その人は連れてきてくださったのです。
 私、単純に考えた。いくら元気のいい娘さんでも、家族4人の看病、おまけに見ず知らずの私の看病、身の回りの世話で気疲れが出たに違いない。簡単にそう思ってました。連れて帰られた娘さん、年頃の娘さんです、服装の乱れたの気にする。髪の毛もくしゃくしゃになってたんです。整えようとしてくしをあてた。ところが、そのくしを引いたら、その部分がくしにくっついたまま髪の毛が抜けてしまったんです。私、まぶたがつぶれていてほとんど視力がありませんでした。けど、同じ場所に横たわっていた目の前のことなんです。それが見えた。ハッとしたんです。あるうわさが流れていた。「今度の爆弾には得体の知れない毒が入っている。その毒に当たった人は歯茎から血が出る、体中に紫色の斑点ができ、髪の毛が抜けてしまう。そうなったらもうその人はおしまいだ。」こういううわさは寝っ転がっている私ですら聞いていた。ひょっとしたらと思ったけど、聞くのが怖い。その通りだったらどうしよう、そう思うと怖くて聞けません。私は見て見ぬふりをしていた。けど、娘さんはすでにご存知だった。今すきかけて抜けた髪の毛の付いたくしを横たわったままでじいっと見つめながら、独り言を言い始めたんです。「どうやらだめらしい。私きっと助からないだろう。これで何もかもおしまいになった。」そしてその後、私に聞こえない小さな声でブツブツブツブツ切れ目のない独り言をつぶやき続ける。この独り言を聞かされたときはつらかった。あれだけいやな顔をせずきたない身の回りの世話までしてくださった人、そういう人が苦しんでいるのを見て私、何にもしてあげることができない。「がんばりなさいよ。力落としたらあかんで。」そんな簡単なお世辞ぐらいしか言ってあげられない自分が、つくづくもどかしかった。なさけなかった。
 夕方、娘さん、苦しみながら亡くなったんです。家族の人に聞いてみると、爆心地から1000mぐらいのところに家があって、中にいたために押しつぶされて下敷きになった。けど、娘さんだけ奇跡的にどこにもケガを負わずに外へはい出すことができたんだそうです。ケガせずはい出すことができたけど、放射能はたっぷりと浴びていた。
 爆心地から1000m付近に降り注いだ放射線、約450ラドン。450ラドン放射線に当たった場合、生存率は50%なんだそうです。半分の人はすぐにその場で亡くなってしまう。それだけの放射能を娘さんは浴びていた。
 すぐには出ないんです。何日かたってその影響が現れ、朝まで元気で働いていたのに、夕方にはもう苦しみながら亡くなってしまうんです。
 後に、今度の爆弾にはただの毒と違う、放射能というえげつないものが含まれていたということを聞かされて、ものすごい恐怖感に襲われたのです。じゃあ私もその放射能を浴びている、いつかはあの娘さんのように突然ばったり倒れて、苦しみながら死なねばならんのか。そう思うと、言うに言われぬものすごい恐怖を覚えました。
 私、まだ現在仕事もって働いています。山登りやオペラなどの趣味ももっています。仕事とかそういうたくさんの趣味にかまけて、1年365日、朝から晩まで思い出すわけではありませんけど、何かの時にはふっとあの時の苦しそうな娘さんのことを思い出すんです。放射能、何年たっても何十年たってもわざわいをもたらす、恐ろしいものなんです。決してみなさん、放射能のことを甘く、軽く考えてはなりません。このくらい恐ろしいものはない、と私は思います。


(4) 収容所内で一部の者しか知っていない悲惨な事実


 ある時、一人の兵隊さんが話して教えてくれた。8月6日、命令でもう回復の見込みのなくなった大けがした人たちばかりを船に乗せて、広島湾海上約4キロ、似島というところへ運んだ。無人島ではありません。そこへ運ばれて助かった人もたくさんいます。けど、その兵隊さんはわざわざ何もないところまで運んで、置き去りにして帰ったんだそうです。「オレな、考えてみると殺生なことをしたと思う。あれだけ大けがした人々、何の施設もないところに置き去りにした。どう考えてみても、長生きはできひん。かわいそうなことをした。そのオレが運んだ連中、みんな体のどこかに荷物の荷札がくっ付けられていた。なぜお前さん一人だけここへ残ったのか知らんけど、よくまあオレの船に積み込まれなくてよかったな。」こんなことを教えてくれたんです。
 戦後5、6年たったとき、その似島で、それこそ人気も何にもない地面からたくさんの人骨が出てきたんです。私の友だちは現地を見に行ったんです。帰ってきて教えてくれました。何体あるか分からないバラバラになった白骨です。その白骨の中やら周りには、その人たちの持ち物やら着てた物やら、ぐっちゃぐちゃになって残っている。そのぐっちゃぐちゃの中に、もう古くなってぼろぼろになった荷物の荷札、まだからまっているのが見えた。あの時、私の周りに倒れ込んでた人々なんです。同じようなこと聞かれて、同じ荷物の荷札付けられた人々、私が小便する場所から長い時間かけてうろうろしている間に、全部船に積み込まれ、運ばれ、捨てられて、結局だれも助けに来ない。全員野垂れ死にして、7年の間にバラバラの白骨になってしまってた。もしあの時私、目がつぶれたし立ち歩くのじゃまくさい、悪いけど倒れている人々の頭の上からション便ひっかけてでも、その場所でじっとしていたら、間違いなくその船で一緒に積み込まれ、運ばれ、野垂れ死にして、バラバラの白骨の仲間入りしてたに違いない。また、変なことで命拾いすることができました。

                          (つづく)