教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑦

  「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④から紹介しています講演の続きです。

 

 

反戦反核・反差別
21世紀につなぐヒロシマからのメッセージ

 

                下 原 隆 資 さ ん(元・被爆教職員の会)

 

■育ったところの言葉で話す

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④

 

■原爆の死者の数

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑤

 

■自分でしたことは言えなかった

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑥

 

 ■私には話す責任がある(1)

 

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑥

 

■私には話す責任がある(2)


 朝鮮人被爆者のこと


 けれども私がいつも言うのは、私が一番ひどい目にあったんじゃない。一番ひどい目に遭ったのは、私でもないし20万人死んだ広島の人でもないんです。だれか言いますと、朝鮮人なんですよ。広島にはたくさんの人が強制連行で連れて来られました。そして働かされたんです。そして、原爆にあったんじゃないんです。朝鮮の人を遭わしとるんです。遭わされたんです。たくさんの人が死にました。


 ところが、何人連れて来て何人死んだかというのは、いっさい日本は調査してないんです。戦争が終わったとたんに消したんです。隠してしまったんです。戦争が終わって13年目だったと思います。広島の市民の会を作って調べてみようや。各工場に、戦中にあった工場に行ったんです。彼らの数はわかりましたね。ところが残念なのはその工場に終わったときいなかったのは、よそへかわらされたとか、また全部焼けた工場もあります。はっきりした数はつかめませんでしたが、まず、朝鮮から来た人が10万人近くおっただろうというのは間違いないです。警察の記録に96000人と出とりましたから。ただし強制連行の人はその半分以下だろうと。


 次に生き残った人がわかったんです。韓国に帰った人もたくさんおるんです。韓国で調べたんです。広島の原爆の後韓国に帰った人。私たちのグループは韓国まで聞き取りに行っとります。私も、毎年夏に計画を立てながら、夏になると、「あんたこっちへ行ってくれ」と、とうとう私一人が一度も韓国へよう行かんような状況です。まあ、聞き取りをしとります。
 それから日本に残った人もおります。この例は私の体験で言わしてもらいますと、中学校2年生のときの学徒動員で工場に行ったんです。三菱重工といいます。海岸にできた大きい工場です。働く人が足りないです。どうしておったのかというと朝鮮から3000人の人が連れて来られたんです。もちろん、逃がさんように高い塀の中に入れて、監視つきで働きに来ます。私の職場にも一緒に来たんですよ。だから聞いておるんですよ。「あんたらなんで連れて来られたんや」、「食事をしょったら、そこでつかまったんや」。家で食事をしょったら日本の人が5、6人来てつかまえたんですよ。「わしら、夕方道を歩いとったらそのままつかまって、来たんや」。まさに人さらいでしょう。その人たちは戦争が終わった次の日と言いますから、8月16日でしょう。工場から「おまえらもういらなくなったんや。出て行きなさい」、皆追い出したんですよ。内緒で食べ物を取った人もいます。この人たちは汽車に乗って福岡まで行ってなんとか帰ったそうです。ところが私と一緒におった、道を歩いとってつかまった人たちは金を持ってないでしょう。そうでしょう。夕方道を散歩に出るのに金を持って出ますか。給料が1円も出ないですから、金を持ってないです。仕方がないから残ったんです。実はこの人は、私が後に、最後に広島のちょっと郊外にあたりますが、大野町というところの小学校の教員になったときに、私の組じゃないですが、私は3年の担任しとって、5年生にですね、たくさんの在日の3世ぐらいの子どもがおったんですよ。その5年生の子どものおじいさんがどうも連行されて来たらしいいう話になって、それじゃあみなで学習のために聞きに行こうやと、全員の先生が、校長先生以下ですね、その日聞きに行きました。話を聞いておったらですね、私のおったときの工場の同じ話なので、どうも同じなのでと職場を聞いたらいっしょでした。どうじゃったかと聞いたら、さらわれた人なんですね。道を歩いとって。「おまえあん時の人ね。わしゃおったんよ」言うたら、考えよって、顔に覚えがあると言われてびっくりしたんですが、27ぐらいだったと思います。私が17だったんで。この人が今、追い出されて行くところがない。汽車の切符は買えません。働くのにも広島で働くところがないでしょう。焼け野原ですから。だから西へ行ったんです。ところがどこも雇うてくれなかった。この大野まで来て一軒の大きな農家に行ったんです。そしたらそこのお父さんは兵隊に行って、働き手がいないです。大きな農家です。「あんたまじめそうな人じゃ。うちの納屋に住みなさい。そして働いてくれ」言うんで雇われたと言ってました。今はお金持ちになって別の家があるんですが、だからそこの農家に対しては今だに大切にしておりました。こういうような人たちが広島にはおったんです。その人たちを全部集計しても2万人ちょっとなんです。とすると4万人ちょっと来られて2万人少ししかわからないんなら、後の人は消えたんですね。消えたということは死んだんですよ。でも通知がないですね。私は今でもそれが一番ひどい目にあった人たちと思います。


 次にね、生き残った人がおるんです。やけどやケガをした人たちがたくさんおるんです。その人たちに、あなたはどうしてもらったかと聞き取ってみますと、ほとんどの人が手当をしてもらってないんですよ。手当をしてもらいに行ったら、救護所が各地にできたんですよ。みんなそこへまわすんです。それを整理しに軍隊から憲兵が来とったんですよ。その憲兵が一つずつ調べていったら、朝鮮人だとわかったら、「今薬は少ないんじゃ。おまえらにつける薬はあるかい」言うて全部追い出してるんです。ですから一番の被害者は朝鮮から来た人たちなんです。


 そういう人たちが今度は何をしたかというと、ひどい目に遭いながらも一番優しかったのも間違いないです。私が話をするのはそういうことを知っていただきたいなというんで、よく話をするんですね。

                         (つづく)