教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑪

2007年度の6年生は、森本範雄さんという方の被爆体験を『めっせえじ』というDVDにまとめました。

制作手法は、「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する①被爆体験を記録する②被爆体験を記録する③で紹介した『ヒロシマのこえが聞こえますか』と同じくビデオ紙芝居です。

 

1985年の『ヒロシマのこえが聞こえますか』のときは、VHSビデオカメラ・デッキとカセットテープレコーダーという完全なアナログ時代でした。それらをミキサーにつないで編集するわけです。

 

対して2007年の『めっせえじ』のときは、デジタルビデオカメラ(このときはまだSDカードではなく、デジタルテープを使っていた)、デジタルカメラボイスレコーダーという完全なデジタル時代です。

 

デジタル時代の編集は、映像・画像・音声のデータをパソコンに取り込み、パソコンソフトを使って作業します。

 

私は、「Corel Video Studio」というソフトを使っています。

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これは『少年F ~最後の兵隊さん~』の編集画面ですが、1番上はプレビュー画面です。真ん中から下の部分で編集をします。

編集部分の上のメモリには1秒単位のタイムが刻まれています。

緑の帯になっている部分は画像とその表示時間を表しています。画像や映像はこの段に貼ります。静止画像の表示時間を自由に設定できるのは、アナログ時代にビデオを回し続けて映像化していたのと比べものにならないほど楽です。

その下にも映像を貼ることができます。たとえば、オーバーレイ効果で「燃えさかる炎のなかで太鼓を打ち続ける」といった映像を作ったことがあります。

黄緑色の帯部分はテロップです。帯の長さが表示時間になります。

その下はナレーションです。紙芝居のナレーションを吹き込んだMP3データをここに貼ります。なお、映像の音声は映像部分に入ります。音声のレベル調整ができるので、声の小さい子の部分を増幅するなど重宝します。

一番下はBGMです。MP3データをここに貼ります。前後のカットや音量調整もできます。

編集が終わると、MPEG4やDVD・ブルーレイなどの形式でアウトプットします。

 

 

今回は、『めっせえじ』のもとになった森本範雄さんという方の被爆体験の講演録を紹介します。

 

私の被爆体験~広島からのメッセージ~


                       森本範雄さん

1.被爆前の日常生活や当時の模様、当時の直前の様子


 私が被爆したのは、17才の時です。
 戦争が激しくなった。戦争に使う兵器や武器が足りない。また、それを作る工場で働く人も足りない。そのために、学校で勉強していた我々、学校の授業を止めてそういう工場で働かすことになったのです。学徒動員と言います。


 私の学校が動員されたのは、広島県呉市というところにあった海軍の基地です。呉海軍工廠と言います。戦艦大和を建造した工場です。大きな工場です。私の学校だけではない、たくさんの学校が動員されて、働きに来ていた。みんな、つらい仕事をするんです。軍艦の重い材料を持たされたり、機械の間に入って油まみれになったり、しんどい仕事をしていた。


 ですが当時私は、商業学校の生徒だったのです。多少そろばんができる。それを利用して、会計部へ回されたんです。机の前に座って、伝票をめくりながらそろばんをパチパチ入れる。帳簿をつける。普通科の生徒に比べると、体ははるかに楽なんです。でも、時間はきっちり拘束されてたんです。朝から晩まで、いろんな計算ばかりさせられる。 自分の自由になる時間がほとんどないんです。


 そのころ私はある目的があって、もう少し勉強がしたかったんです。でも時間がないから、思うように勉強ができません。何とかしたい。いろいろ考えて、いい仕事を1つ見つけた。小学校の代用教員です。もちろん先生の資格はない。けど、小学校の先生が不足していた。そのために、間に合わせに使ってもらうことができたんです。


 小学校へ勤めてしばらくのちに、あばら骨のまわりが痛くなる病気にかかったんです。病院でみてもらったら、「10日間休みなさい。」と言って、診断書を書いてくれたんです。私はこれ幸いと、朝から家で何もせず、ゆっくり本を読むことができた。けどその痛い病気、1週間ほどしたらよくなったんです。あまり痛くない。


 そこで1週間目の朝、考えた。1週間目の朝というのが、昭和20年8月6日なのです。その時分、小学校には夏休みがありませんでした。8月6日、市内の小学校は全部登校していたんです。「さて、今日はどうしよう。あまり痛くないから、もう病院行くのやめようか。もう1日ぐらい行ってこうかなあ。小学校も1週間ごぶさたした。私が担任していたチビさんどもはどうしているだろうか。」学校へ出ようか、病院へ行こうか、思案しながら家を出たんです。市電の停留所に着くまでの間、考えながら歩いた。けどどっちにしたらいいか、自分自身決めかねていたんです。言ってる間に停留所に着いた。同時に1台の市電が入ってきた。もう思案も何もない。入ってきた市電に無意識で飛び乗ったのです。私の学校と通っていた病院は、市電で反対の方向に行くのです。私の学校は、爆心地から約6kmはなれていた。通っていた病院は爆心地から1.1kmのところにあったのです。乗った市電は、病院の方向に行く市電でした。


 病院の前で降りた時に、ばったり昔の同級生に出会った。聞いてみると、東京の学校に転校していた。けど、東京で空襲にあって持ち物を全て焼かれ、着の身着のままでまた広島に逃げ帰ってきたと教えてくれたのです。とっても仲のいい友だちだったんです。お互い別れて以来の話がたくさんある。夢中でしゃべりながら、何となくそこら辺を歩き始めた。病院の前から爆心地に向かう道を歩き始めたのです。約100mぐらい歩いた時、それまで肩を並べてしゃべりながら歩いてたんですけど、ふと立ち止まって向き合って話し始めた。その時に8時15分になったのです。

                           (つづく)