教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑮

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑪から紹介しています講演の続きです。 

 

 

私の被爆体験~広島からのメッセージ~


                       森本範雄さん

1.被爆前の日常生活や当時の模様、当時の直前の様子

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑪

 

2.爆発の状況、周囲の状況、負傷者の状態等

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑫

 

3 収容所内での生活

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑬ 

 

 4 帰郷後の生活について


 やっと戦争が終わった。私の郷里の私のおじさんたちが、私たち家族を捜しに広島へやって来た。そして、バラバラになっていたのを探し出し、連れて帰ってくれました。私の郷里は、奈良県橿原市なんです。今の県立医大病院で治療してもらうことになりました。大きな病院です。薬はたっぷりある。十分な手当を受けることができました。
 私の右手、その時にはもう完全に肉が崩れて、指がくっついて団子になってた。痛い思いして、1本ずつ分けてもらったんです。治ったときには、普通の人に比べて多少指が短く見える。指が短くなったんじゃないんです。手の甲の肉が崩れて盛り上がったために、指の股が狭まって短く見えるだけなんです。何でもできます。どんな力仕事にでも使えます。
 あのウジ虫だらけの顔、厚さ1センチぐらいの分厚いかさぶた、ベトーッとお面かヘルメットかぶったように全体をおおってた。少しずつ取れ始めたんです。下から出てきたのは、原爆の火傷独特のケロイドという症状です。ものすごいでこぼこなんです。谷間にたまったあかをゴシゴシこすっても取れかねるようなでこぼこです。そのものすごいでこぼこも、何年かするうちに私の手からも顔からも消えてしまった。どこでどんな整形手術をしたかと聞かれる。してません。そういうことができるような生活の余裕はなかった。放ったらかしやったんです。これは私の勝手な素人判断ですけど、被爆間なく広島を離れ、遠いところの大きな病院で十分な治療を受けることができたおかげだろうと思います。
 けど、もし間違ってこういう問題に襲われたり、大きな核の事故が起きた場合、今度は私みたいにいろんな幸運が重なって生き延びられるという保障は、どこにもありません。どれ1つなくっても今生きていられないだろうと思われるような幸運が、私にはいくつもあったんです。こんな幸運はだれの上にもおとずれてくれるとは限りません。爆弾に至っては、広島型の何十倍何百倍という威力の強い爆弾、何万発もできている。もしこういうものが使われ始めたら、もう逃げ回って生き延びるどころではない。あっという間に人類は死滅してしまいます。もうだれもそんな目にあってもらいたくない。そういうものを使う戦争を絶対に起こしてはならない。けど、それを防ぐ力、私には何にもありません。私は立派な政治家でもなければ、えらい学者でも大財閥でもない。ただの普通の町のオジサンの一人です。でもそういう怖いこと、十分に体験して知ってます。そういう恐ろしいものがあるということはお伝えすることができる。そう思って約25年ぐらい前から、広島で、おとずれてくださる若いみなさんに、たいへんまずい話ですけどさせてもらってます。 〈了〉