教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑩

  「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④から紹介しています講演の続きです。

 

 

 

 

反戦反核・反差別
21世紀につなぐヒロシマからのメッセージ

 

                下 原 隆 資 さ ん(元・被爆教職員の会)

 

■育ったところの言葉で話す

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④

 

■原爆の死者の数

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑤

 

■自分でしたことは言えなかった

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑥

 

■私には話す責任がある(1)

 

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑥

 

■私には話す責任がある(2)

 

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑦

 

■私のこと、8月5日


「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑧


■私のこと、8月6日

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑧

 

■私のこと、島へ帰る

 

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑧

 

■戦争と差別

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑨

 

■原爆と部落差別

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑨ 

 

■あの地獄の中で人としての優しさを失わなかったのは一番差別された人だった


 もう時間が来たんですが、ただその中でそういう人たちが何をしたかを知っといてください。逃がしてもらえない人は、そこに焼きに来た人が焼いてくれないんですよ。朝鮮の人だとわかったら焼いてくれません。部落には焼きに来てくれないんです。そこの人たちはしょうがないから自分たちで焼いたんです。ただしその焼き方は、集めてゴミのようにして焼いとるんではありません。これ人間じゃ。これ朝鮮から来た人もそうだったんです。私に言わしたら自分たちも入れた日本の国の仲間ですよ。なんて大事にしたんだ。聞き取りしてみたらびっくりしました。私たちは人の苦しみが分かるんですよ。原爆で死んだ人は苦しみながら死んだんです。その気持ちを考えたら粗末にできなかった言うんです。ですから焼くものがないので、山まで薪を取りに行ってかついで帰って、ひとりずつていねいに焼いて、名札で名前が分かります。全部骨を取っておるんです。だから供養塔の下に3000人の名前のわかっとるのが届けられたんです。部落から2000人、朝鮮から来た人もかなりの数届けてくれました。あの地獄の中で人としての優しさを失わなかったのは、実は一番差別をされた人だったんです。これは事の苦しみが分かったからだという答えが出ました。


 もうひとつ、広島では生き残った人の10万人近くが周辺に逃げておったんです。食べるものが0です。考えてみてください。日本中なかったんです。輸送手段がないんです。広島中焼けて何にもないです。じゃ、それだけの人が死んだかというたらひとりも死んでないんですね。理由は、聞いて回ってびっくりしたんです。市役所の記録にもあります。部落の人は逃がしてもらえんから食料をくれと言うて行ったんですよ。配給でしょう。配給くれや言うて行ったんです。ないものはないんです。広島の後に市長になった人ですが。この人が、「ないんじゃ。トラックを借ったげるわ」。軍隊のトラックを13台借りて届けてくれたんですよ。これで食料運んで言うて。よっしゃ運んじゃろ言うて部落の青年30人か35人から始めたそうです。実は青年がおったんですよ。何でおったかというと戦争に行ってないんです。理由は特別な技術を持っておったんです。軍隊に雇われとったんです。軍属だったんですね。だから兵隊に行ってないんです。原爆におうた時いたでしょう。おってから、13台のトラックに分乗して、米がある地方の田舎の方へ行っては、こんな大きなむすびを一軒に一つずつ作ってもらうんです。木の箱に入れてトラックに山のように積んだんです。一つのトラックに結びは何千個積めますか。13台いうたら10万個あるんですよ。それを持って帰って、最初自分たちの住むところへやったんですよ。よう考えたらみな腹が減っとる。みなに届けようよ。例えば学校に300人ぐらい避難しとると、これ食べんさい言うてむすび300。全部配ったんですね。これを戦争が終わるまでやっとります。しまいには5、60人に増えとります。そのおかげでだれも死んでないんですよ。あの地獄の中で最初に立ち上がったのは部落の青年35人だったんです。


■やさしさに学ぶ子どもたち


 この話は後の話があるんです。この話を聞いた解放子ども会の中学生が、わしらの先輩すごいのう。いっちょうがんばろうやいうて考えてやったのが平和行進なんです。8月の4日に出発して82km来たんですよ。三次というところから8月の4日に40km歩いてます。途中学校の体育館に泊まったんです。また40km歩いて5日の晩に平和公園へ着きます。それで今度は広島の学校の体育館を借りて、6日の朝早う起きてドームへ集合するんです。最初100人ぐらいから始めたんです。そしたら、わしらもわしらも言うてですね、しまいには何千人になったんです。こうなると警察が困るそうです。整理ができないんですよ。ちょっと減ってくれと言うんで、その後できたのが、各地から行こう。わたしの方の島からは60kmです。最初は54kmだったのが、ちょっと遠くから歩くようになって60kmになりました。そこから2日がかりで歩いて来ます。近いので小学校の子どもも参加させております。あの地獄のなかでやさしさを失わずたくましく立ち上がった我々の先輩に学ぼうと、あの暑いのに元気いっぱい歩くんです。途中でいろんなシュプレヒコールもやります。原爆のなかにも差別はあったんですけれども、その中からたくましく立ち上がった人たち、あるいはやさしさを失わなかった人たちがおったのを知っていただきたいと思います。


■子どもたちに命の大切さを教えてやってほしい


 最後にお願いしておきたいのは、みなさんは学校や幼稚園・保育所の関係の人だと思います。子どもたちに命の大切さを教えてやってほしいんです。わたしは中学校の教員になりました。受け持った生徒のなんぼかは、おじいさんやおばあさんや、おじさんやおばさんとこで養われとんです。つらかった思います。帰ったら仕事させるんです。

「先生、わしゃ死にたいわ」と冗談でよく言いよったです。そのたびにわたしの言ったことは、「おまえ今までひとりでおってそこまでになったんなら勝手に死ねや。おまえひとりの命かい」。そしたら「わしゃ、お父ちゃんお母ちゃんおらんもん」。「違うじゃろ。おまえのおじいさん、おばあさんがおまえを大事に育てたけん、今まで育っとるんじゃろ。おまえの命はひとりのもんじゃなかろう」言うんです。回りのものにとっても大切なんや。一人で勝手に死んでいい命はない言うんです。わたし自身が、わしゃ生きとるんじゃないんです。みんなの力で生かされとるんじゃ。みんなの助けがなかったら死んどった命じゃ。だから命というのは大切なんじゃいうことを知らせてほしいんです。命の大切さ、そしてそれがわかったら人の命の大切さも知らしてほしいと思います。


 私のたった一つの自慢を言います。教員を57でやめたんです。やめるときに「励ます会」というのを教え子がやってくれたんです。一番初めの年の子が中心になってくれてみんなを集めてくれたんです。先生にええものあげる言うからくれたのが、教えた子の名簿なんです。3000人ちょっと教えておりました。子どもたちの言うのに、先生ろくな先生でなかったが、一つだけ、その名簿のなかに死んだ子はおりますよ。彼が言うんです。「このなかに自殺した子はおらんね。先生いつもどなりよった」と。「命があるから、こうやってどなりよったじゃろう。先生一つは自慢できるじゃろう」言われて、今でもそれだけを誇りにしとるんですよ。中心になった子どものなかに、高校でよくできたんですけど、悩んで死にたい言うて帰ってきて、その子にどなったそうです。「先生どなられていっぺんに生きる気になったよ」言うてくれましたが、どうか命の大切さを教えてやっていただきたい。これをひとつお願いしておきます。これで一応終わりたいと思います。