1月8日、映画『大コメ騒動』の上映が始まりました。
映画の題材は、1918(大正7)年の「米騒動」です。
「米騒動」の始まりは富山県で、『大コメ騒動』の本木克英監督も富山出身です。映画は富山における「米騒動」という史実を題材にしていますが、あくまでエンタテイメント作品です。
新型コロナの感染拡大で映画館へ足を運ぶのは躊躇しますが、この作品に注目しています。
今回は、何に注目しているのかということについて書きます。
そもそも「米騒動」とは
1918(大正7)年7月23日の朝、富山県魚津町(現在の魚津市)の女性荷役労働者ら数十名が、船による米の他地域への積み出しが米価高騰の原因だから積み出しをやめさせようと、海岸に集まりました。(というのが定説ですが、場所については魚津町を含む富山湾沿岸部のいくつかの町、日付については7月23日もしくはその数日前としておきます)
富山に端を発した米の安売り(適正価格での販売)を求める運動は、またたく間に全国に広がりました。
それを「米騒動」と呼びます。
「米騒動」の社会的背景
第1次世界大戦中には、輸出激増に伴い物価、特に米価が高騰しましたが、1918年に政府がシベリア出兵の方針を固めたことを背景に、投機目当ての米買い占めが起こり、米価が急騰しました。
たとえば、大阪における摂津米1石(150kg)の卸売り価格は、1917年3月には15円でしたが、6月に20円をこえ、18年7月には30円を超えました。
こうした状況のなか、1918年の端境期を迎えます。富山県では、7・8月は鍋割月(なべわれづき)と呼ばれていました。
「米騒動」の広がり
「米騒動」は7月23日もしくはその数日前に富山県で始まり、9月12日に福岡県三池炭鉱の1件で終わります。
青森、岩手、秋田、沖縄の4県を除く1道3府(当時は東京府)39県の43市、187町、206村、合計436の市町村で起こりました。と、『米騒動 水平社への道のり』(解放出版社、1988年)には紹介されていますが、実数はさらに多いようです。
「米騒動」は民衆騒擾に違いありませんが、それ以前のような政党やジャーナリストといった指導する層がなくて、民衆自身の自然発生的な闘いだった点に大きな特徴があります。
「米騒動」の結果、寺内正毅内閣が倒れ原敬内閣が誕生します。いわゆる大正デモクラシーが開花していきます。農民運動や社会運動が広がり、全国水平社もこうした流れの中で結成されています(1922年)。
「米騒動」の全国的な広がりは、米価高騰による生活苦があったのはもちろんのことですが、大正デモクラシーという時代の「空気」も大いに関係しているでしょう。
「米騒動」か「米よこせ運動」か
さて、「米騒動」という用語についてです。
「米騒動」は、米の安売り、生活の救済などを求めて、集団的に役場、米屋、資産家、炭鉱事務所などに押しかけて闘った大衆行動です。その過程で、大衆への対応が悪かったりすると暴動化し、打ち毀しや焼き討ちが行われたところも少なくありませんでした。その意味では、まさに「騒動」です。
「騒動」とは、「多人数が騒ぎたてて秩序が乱れること。また、そのような事件や事態」(デジタル大辞泉)です。言葉そのものがマイナスイメージを纏っています。
統治者の側から見ると、集団で押しかける大衆行動は「騒動」です。
では、押しかけた大衆の側から見ると、どうでしょう。
集団で押しかけて要求を突きつけることは、力を持たない民衆の正当な行為ではないでしょうか。そう考えると、「米『騒動』」ではなく「米よこせの『運動』」です。
行き過ぎた破壊行為や暴力を正当化することはできません。しかし、それをもって一連の行動を「騒動」と括ってしまっては、要求運動の本質や正当性を否定することになります。
私は、「米よこせの運動」と評価した上で、運動の過程で行き過ぎた行為もあったことを注記すべきだと考えます。
統治者の側の視点と民衆の側からの視点は、歴史学習の重要な視点です。
「一揆」や「打ち毀し」など、いずれの視点に立つかによって授業のポイントが真逆のものになります。
問われているのは、教師の立脚点です。
映画『大コメ騒動』が、歴史への視点を考えるきっかけになることを願います。