教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 12月22日

労働組合法制定記念日

 

1945(昭和20)年12月22日、「労働組合法」が公布されました。
労働組合法」は、労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権等の保障について定めた法律で、「労働基準法」「労働関係調整法」とともに「労働三法」と呼ばれています。

 

労働組合法が制定されるまでの歴史について、厚生労働省のHPに「日本の労働組合の成立ち」という文献が掲載されています。

日本の労働組合の成立ち 


1.明治 
明治以前から、鉱山などでは、労働条件や低賃金に対する闘争があり、明治 11 年の横須賀造船所の争議、明治 19 年の甲府の雨宮製糸場のストライキをはじめ、多くの労働争議が記録されている。しかし、労働者はまだ労働組合を作るまでにはいたっていなかった。

我が国ではじめて労働組合を結成したのは、活版印刷職工たちだった。明治 17 年、22年には、東京印刷会社において、活版工の労働組合をつくる運動があったが、活版工からの賛同を得られず、失敗した。また、明治 23 年には、同志会という団体を起こし、初めて活版工の組織に成功したが、まもなく解散にいたった。
その他の労働組合運動は、明治 20 年、鉄工の間から行った。多くの弟子を養う親方職人が運動を始め、鉄工懇親会が開かれたが、組織化は失敗した。また、明治 22 年、熟練鉄工の有志十数人が発起人となり、同盟進工組が結成されたが、その後すぐ解散してしまった。

明治 27~28年の日清戦争の時期を通じて、日本もようやく資本主義の基盤が確立し、労働者が団結する気運もにわかに強まった。
明治 30 年 7 月、労働組合期成会の結成によって、日本の労働組合運動の幕が切って落とれた。期成会の結成は、明治 20 年代にアメリカに出稼ぎに行っていた高野房太郎、城常太郎、沢田半之助ら数十人の日本人による労働組合運動の呼びかけが契機となっている。
彼らは、アメリカにおいて弾圧に立ち向かって活動を続ける鉄道・鉱山労働者の労働組合や、イギリス・ドイツの労働組合運動の発展を見聞きし、日本に帰国後、労働組合結成の運動を展開した。運動は多くの進歩的学者、経営者、政治家、宗教家の支援を集め、これらの労働組合の結成に至った。

期成会の特筆すべき運動の1つは、労働者保護法たる工場法実現のための運動だった。当時の工場労働者の大半は繊維産業が占めており、その大部分は女工であった。彼女らは低賃金で長時間の労働に従事し、その労働条件は务悪であり、生糸工場などでは、毎日の労働時間は13~14時間を下回ることはなく、17~18時間に達した。政府は労働者とくに婦人・幼少年労働者を保護する法律を制定するため、工場法案要領を発表した。ところが、紡績業を中心とする産業界は、強くこれに反対し、期成会の必死の工場法期成運動も、ついに実らなかった。その後、工場法は、明治 44 年にようやく成立し、大正 5 年から実施されたが、まだまだ丌完全なものであった。

また、期成会は、労働者を導き、自らを母体としながら、次々に労働組合を生み出していった。その代表的なものは、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合の3つである。
期成会会員の9割は鉄工だったので、まず最初に鉄工組合が結成された。当初の鉄工組合には、東京砲兵工場・砲具製造所を筆頭に、横浜ではドック会社を中心に支部を結成したほか、甲武鉄道、新橋鉄道局、通信省旋工場、東京紡績場、日本鉄道大宮工場その他3~4の工場の鉄工が組合員になった。鉄工組合は、結成後、驚くべき勢いで発展していった。
交戦的労働組合の標本といわれた日鉄矯正会は、当時、民営企業であった日本鉄道会社の火夫、機関士が、待遇改善のストライキを通じて生まれたものである。この労働組合は、従業員の中の火夫、機関士、常務雇用者全員約 1 千人をもって組織し、「会員たらざるものはともに業につかざること」として、今でいうクローズド・ショップ制を確立した。
つぎに調和的労働組合の標本といわれた、活版工組合が発足した。活版工組合の施行細則には「本組合員を雇用する工場の労働時間を1日10時間とし、30分間の休憩時間を受くるものとす」とあり、普通 11~12 時間の労働時間だった当時にあって、資本家と協議して労働条件の改善を勝ちとっていた。その後、横浜、京都、名古屋、大阪、奈良と支部ができ、2 千余名の会員を組織することに成功した。

明治31~32年は、労働組合運動の最初の開花期である。横浜市西洋家具指物職同盟会、神戸の清国労働者非雑居期成同盟会、東京馬車鉄道会社馭者車掌同盟期成会、洋服職工組合、靴工クラブ、東京船大工職組合、木挽組合、石工・左官たちの組合などの労働組織がつくられていった。横浜市西洋家具指物職同盟会は、規約に「雇主にして無鑑札の職工を使用することあるときは、わが会員は何時を問わずその職に従事せざること」等が規定されていた。
また、神戸の清国労働者非雑居期成同盟会は、中国人の居留地外居住を絶対に禁止し、同業者の就業を保護しようというもので、会員数は 3 万人にのぼった。

しかし、新たに発足した労働組合運動の第一義的な狙いは労働者の社会的な地位の向上であり、労働者の生活改善や労働者保護法の制定、普通選挙制度の実施などを要求していたにすぎなかった。決して資本主義の基礎を脅かそうとするものではなかったが、この最初の労働組合運動は、明治 33 年に治安警察法が施行されることで壊滅させられてしまった。労働運動は、大衆の運動から一部の急進革命家の直接行動に変化し、やがて明治 43 年の大逆事件によって崩壊してしまう。


2.大正 
大正時代においても改良主義や生活改善運動で出発した労働運動が、当局の弾圧によって急進化し、やがて弾圧のもとで分裂し壊滅するというサイクルをくりかえすことになる。大正元年 8 月に鈴木文治を中心に、15 人の同志によって友愛会が創設され、大正時代の労働組合運動が辛うじて再建された。友愛会はその綱領において、親睦・相愛扶助、識見開発・徳性涵養・技術進歩、地位向上などを掲げ、きわめて労資協調主義的であった。友愛会の運動は当時まだ地位の低かった労働者の大歓迎をうけ、大正 3 年から始まった第一次世界大戦によってにわかにその数を増加した賃金労働者によって支持された。 

当初は穏健的だった友愛会は、戦争中の物価高騰や米騒動吉野作造の「民本主義」、ロシア革命などの影響を受けて、労資協調路線を捨て、階級闘争をスローガンとするようになっていった。友愛会は大正 8 年には大日本労働総同盟友愛会と改称し、大正 10 年には日本労働総同盟へと、名実ともに労働組合への道を歩むことになった。第一次世界大戦直後の恐慌による失業者の増大、賃下げなどは労働組合運動のなかに急進主義を台頭させ、急進主義は当時の労働者を強く惹きつけた。また、大正9年には、日本で初めてメーデーと銘打った屋外集会が開かれた。一方、政府は普通選挙制度を実施すると同時に治安維持法を施行していっそうの弾圧政策を展開し、労働組合運動も現実主義への方向転換を宣言したが、統一へと歩むことは容易にはできなかった。

大正 14 年に日本労働総同盟は分裂し、日本労働組合評議会が創立された。分裂は、一層、左派を地下運動的な急進主義に押しやり、右派を労資協調主義へと向かわせていった。日本労働総同盟の分裂は、大阪連合会所属の左派組合の除名など第二、第三の分裂を引き起こし、労働組合運動陣営を分解させてしまった。


3.昭和 
昭和に入ると賃金労働者がより増加し、労働組合運動は外形的には発展したように見えたが、大正時代からの左派と右派の相互丌信は解消されず、分裂は固定的なものとなった。左派系統の労働組合運動は、昭和 3 年の三・一五事件、昭和 4 年の四・一六事件等によって著しく弱体化し、右派が残った日本総同盟も産業報国運動により昭和 15 年に活動を停止せねばならなかった。

昭和 6 年の満州事変の勃発を契機とする軍国主義全体主義の台頭は、労働運動の存在を根こそぎゆるがすことになった。労働組合運動は、さらに分解を深めて、その一部は国家社会主義へ、さらに日本主義へと転向し、戦争協力をうたうことなしには労働組合の合法的存在さえ危うくなったかにみえた。つづいて昭和 12 年の日華事変を境とする戦時体制の強化は、戦争協力の立場をとる労働組合に対してさえ、自主的組織を奪い去り、官制の産業報国運動のなかに追い込んでいった。昭和 13 年に軍部と官僚との直接指導のもとに始まった産業報国運動は、労資一体・事業一家・産業報国のスローガンにより、労働組合の解体を要求し、昭和 15 年 8 月には、労働組合はすべて自発的に解散させられた。

一方、大正末期から昭和初期にかけての丌況期における大企業を中心に、新しい、そして日本に固有な、労使関係の第一歩が踏み出された。すなわち、それ以前の、移動の激しい、高賃金の、職人的熟練工に代わって、年齢の若い、新規学校卒業生を企業ごとに、卒業と同時に採用しはじめ、中途採用を排し、工場事業場の内部で技能養成をおこない、一定期間の後、技能優秀・身体強健等の若者だけを本雇(常用工・本工)として採用し、いったん採用の後は、丌特定の長期間その工場又はその企業の従業員として、定年のルール年齢が到来するまで、他に移動することなく、そこで働き続けさせるような労務政策がとられた。

したがって、雇用条件や地位の上位は、もっぱら勤務年数の長さや年功がものをいうことになり、生涯雇用・終身雇用と年功賃金と地位の役付化とが保証されることになる。労働市場は個々の企業のなかに縦の形でせまく形成され、労働者の意識のなかには、企業意識や従業員意識が強くなっていった。


4.戦後 
日本は、ようやく 15 年の戦時体制に終止符を打ち、平和がおとずれたが、敗戦の結果、連合国軍の占領下におかれ、情勢は大きく転換した。昭和 20 年には、産業報国会が解散され、労働組合法が制定され、労働者に団結権、団体交渉権、ストライキ権が保障された。昭和21年には労働関係調整法が、昭和 22 年には労働基準法が制定され、労働省が設置されたこのような情勢を背景に、労働者は、敗戦直後から生活を守るための自然発生的な闘争にたちあがり、その過程で労働組合の再組織に乗り出していった。

労働組合の結成は、破竹の勢いで進んだ。昭和 21 年 5 月 1 日には、昭和 10 年を最後に弾圧のため中止を余儀なくされていたメーデーが復活し、皇居前広場に 50 万人の大衆を集め、敗戦後 1 年目の昭和 21 年 8 月末には 13,622 の労働組合が組織され、3,936,815人がそこに加入していた。

また、戦後の労働組合の躍進にとって見落とせないのは、占領軍の占領政策だった。占領政策の第一の目標は、日本の非軍事化・非軍国主義化におかれ、占領軍は、日本の軍国主義を復活させないためには、民主的団体として労働組合におおいに期待した。
占領軍は、日本政府に労働組合の保護・育成を命ずるとともに、アメリカ本国から AFL(アリカ労働総同盟)や CIO(アメリ産業別労働組合会議)の指導者を呼び、労働組合の結成を支援させ、もしこれに妨害を加えるような経営者があれば厳重に警告した。このような占領軍の方針により、労働者は、積極的に労働組合に参加したばかりでなく、経営者は、労働組合がない場合には、結成をかえって援助した。

戦後の労働組合は、各会社ごと、各企業ごとにつくられた企業別組合を特徴とし、大企業の場合も、その傘下の事業所ごとに組合がつくられ、これらの組合が企業全体としての連合体、いわゆる企業連・企連をつくっている。日本で企業別組合が支配的な傾向なのは、一般資本主義国の労働組合の多くが、横断的な産業別または職業別組合であるのと大きな相違である。

日本の企業別組合の特徴は、労働者が、他の諸国のように工場から工場へ横に移動することなく、一度就職したら、その会社の従業員として、年功賃金と退職手当を目的に、企業内の福利施設を誇りとして終身雇用されている、いわば縦の労使関係からきている。このような終身雇用制度は、大正末期の大企業からはじまって、戦争中の労務統制によって強化され、敗戦後まで持ちこされ、企業別組合の基礎がつくられた。
企業別組合では、組合員は、まず企業の従業員であり、会社が倒産しないこと、そこから解雇されないこと、また年功賃金のベース・アップが最大の関心事であり、要求である。企業別組合は、多くの場合、工員、職員の別なく、そこで働く全従業員が加入する全員組織であるが、これはまたその企業の従業員以外は加入させないことをも意味している。

なお、戦後の労働組合は、このような企業ごとの縦断組合であるが、これらの組合が全国的に結合することを妨げるものではなかった。昭和 21 年 8 月には、早くも日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業労働組合会議(産別会議)の 2 つの全国的労働組合が正式に発足した。

日本の特殊な労使関係は、戦前に、大企業を中心として形成され、戦時の何年間かをくぐり抜け、戦後に持ち込まれた。戦前においては、上記のような労使関係と労働組合はむすびつかず、むしろ終身雇用や従業員意識は、労働組合排斥のための企業側の政策として用いられさえしたのだが、戦後における労働運動の自由によって、上記のような戦前から引き継いだ日本に固有な労使関係の上に労働組合がつくられることになった。戦後の企業別組合・企業内組合が、ここにはじめて生み出されたのである。
            出典:日本労働組合物語(大河内一男、松尾洋 筑摩書房1965年8月)

 

労働組合の組織率が低下の一途を辿る現今、過去の歴史を学び、過去の歴史に学ぶことは意味のあることだと思います。