教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(その33) ことわざ「弘法にも筆の誤り」

小学校3・4年生の教科書に登場することわざの第10回は「弘法にも筆の誤り」です。

 

 

弘法にも筆の誤り

 

「弘法にも筆の誤り」の読み方

 こうぼうにもふでのあやまり

 

「弘法にも筆の誤り」の意味

その道に長じた者にも、時には誤りや失敗があるというたとえ。「弘法も筆の誤り」とも。(広辞苑

 

「弘法にも筆の誤り」の使い方

 併し勿論これは千慮の一失である。弘法にも筆の誤りがあるのだから神ならぬ中西氏に解釋の誤りがあるのは怪しむに足らぬ。しかもそれは僕に「プロレタリヤ運動の現實に接して貰いたい」という親切あまつての誤解であるから僕は衷心から感謝する。(平林初之輔『中西氏に答う』)

 

「弘法にも筆の誤り」の語源・由来

「弘法にも筆の誤り」の由来は、『今昔物語集』 巻十一 「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」に収められている逸話にあります。

 

京都の大内裏に応天門という門がありました。

弘法大師は勅命により門に掲げる額を書くことになりました。


「亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ」

(ところが応天門の額をうちつけてから見ると、「応」の字の最初の点がいつのまにかなくなっている)

「驚テ筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。諸ノ人、是ヲ見テ、手ヲ打テ是ヲ感ズ。」

(驚いて筆を投げ点を打った)

 

 「弘法にも筆の誤り」の蘊蓄

弘法大師の名誉回復のために

弘法にも筆の誤り」がことわざとして成立するための必要条件は、弘法大師は書の名人であるという共通認識です。

 

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられてい

る。

                              (Wikipedia

 

弘法大師の面目躍如ということわざがあります。

弘法筆を選ばず

「文字を書くのが上手な人は筆のよしあしを問わない。本当の名人は道具のよしあしにかかわらず立派な仕事をする。」(広辞苑)という意味です。

これもちょっと深いようです。

「永井孝尚の写真ブログ」に「弘法大師は、実は筆を選んだ」(2007年11月18日)という文章があります。

弘法大師は、実は筆を選んだ -道具への拘りの大切さと、道具への偏重の罠ビジネス・スキル
                              2007/11/18
プロフェッショナルは皆道具に徹底的に拘っています。最高の作品を残すからには、そのための道具に拘るのは当然のことでしょう。

一方で、「弘法は筆を選ばず」という言葉があります。

そこで、こんな意見が出てくるかもしれません。

弘法大師は道具を選ばなかった。従って、プロフェッショナルが道具に拘るのは当然、というのは必ずしも正しくないのではないか?」

実は、この言葉の真の意味は、弘法大師のような達人であれば、筆の良し悪しは関係なく、どんな筆でも傑作が書ける、ということのようです。

つまり、「一流の人間は道具に拘らない」という意味ではなく、「一流の人間は、一流の道具でなくても、一流の仕事が出来る能力を持っている」ということです。

例えば写真の世界でも、天才アラーキーのようにコニカビッグミニで軽快に作品を撮り続ける人もいますし、加納典明のように、レンズ付きフィルムでノーファインダーでバシャバシャ3枚撮影して全て傑作という人もいます。
 

一方で、実際には、弘法大師は書体によって筆を使い分けたと言われます。

事実、一流と言われる人は、道具に徹底して拘っている方が多いようです。

例えば、ピアノの巨匠・リヒテルは、当時世界的には無名だった日本のヤマハを好みました。プロジェクトXでも紹介されたので、ご存知の方も多いかもしれません。

実際には、多くのクラシック・ピアニストは、よい音が出る「スタインウェイ」という会社が作ったピアノを好みます。

しかしリヒテルは、ヤマハの弱音の美しさ、音楽的感度の高さが、彼の音楽に合っていることを評価したと言われます。

また、素晴らしい調律師(技術者)達がいるため、リヒテルは、ヤマハの調律師達に、調律だけでなく、照明、椅子の高さ、ピアノの位置まで任せたそうです。

気難しいことでも有名だったリヒテルは、自分が最高の演奏をするための手段としてヤマハを選びました。

 

道具に拘るもう一つのメリットは、最高の道具を使うことで、「本当はもっといい道具を使っていればもっといい結果が出せた」という自分への言い訳を封じることだと思います。

例えば、私は写真撮影には、プロ用機材を使用しています。「プロ用機材は確実に作動する」という現実的なメリットに加えて、最高の機材を使用することで「上手く撮影できないのは機材のせいではなく、自分のせいだ」という覚悟を持ちたいためです。

 

いい仕事をするために、どのような道具を使用すべきなのか、我々は真剣に考えたいですね。

一方で、道具はあくまで手段です。道具に偏重してしまう落とし穴は、「いい仕事をするため」という視点がないままに道具に拘ってしまう点にあります。道具偏重の罠には陥らないようにしたいものです。

                               (永井孝尚)