教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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日本語探訪(その112) 故事成語「捲土重来」

小学校のうちに知っておきたい故事成語の第34回は「捲土重来」です。

 

捲土重来

 

「捲土重来」の読み方

けんどちょうらい

 

「捲土重来」の意味

(「捲」は「巻」に同じ。「巻土」は土煙をまきあげること。勢いの盛んなさま)一度敗れたものが、再び勢いをもりかえしてくること。(広辞苑

 

「捲土重来」の使い方

少なくとも三匹は生れるだろうと、仔こ猫ねこを上げる先を決めたりしていた飼主はあてがはずれてしまった。そこで捲土重来を期して、もう一度という段取りになったのである。(向田邦子『無名仮名人名簿』1980年)
 

「捲土重来」の語源・由来

「捲土重来」の出典は、杜牧(とぼく)の「題烏江亭(うこうていにだいす)」です。

 

題烏江亭
勝敗兵家事不期
包羞忍恥是男兒
江東子弟多才俊
捲土重來未可知

【読み下し文】

烏江亭(うこうてい)に題(だい)す
勝敗(しょうはい)は兵家(へいか)も 事(こと)期(き)せず
羞(はじ)を包み恥(はじ)を忍ぶは 是れ男兒(だんじ)
江東(こうとう)の子弟 才俊(さいしゅん)多し
巻土重來(けんどちょうらい) 未(いま)だ知る可(べ)からず

【現代語訳】

烏江亭に題す
勝敗は兵法家でも予測することができない。
恥辱に耐え、巻き返しをはかるのが真の男児というものだ。
項羽の出身地である江東地方にはすぐれた人物が多い。
砂塵を巻き起こす勢いで劉邦をもう一度攻撃していたら、どうなっていたかわからない。

 

紀元前202年、項羽は垓下の地で劉邦軍に幾重にも包囲されます。
この時、敵陣から故郷の楚の歌が聞こえてきたため、味方がみな降伏したと思い項羽は絶望した…四面楚歌の逸話はあまりに有名です。
それでも項羽なんとか敵の包囲網を突破し、わずかな手勢とともに烏江まで逃げ延びます。
烏江の亭長(宿場の長官)は「舟に乗って逃れ、再起をはかりなさい」とすすめます(この部分が「捲土重来」のもとになっています)が、項羽はこれを断ります。
天が我を滅ぼしたのだ。どうして渡れよう。それに、江東の子弟八千人が我とともに西に渡ったのに、今はもう一人も残っていない。仮に王になれたとしても、彼らの父兄に何の面目があって対面できようと。
こうして敵につっこんでいき、さんざんに戦い、自ら首をかき切って果てたということです。

 

「捲土重来」の蘊蓄

「捲土重来」の関連語

「中国語スクリプト」の「捲土重来」ページに、「『捲土重来』の関連語」として次の語が紹介されています。


四面楚歌」は烏江に落ち延びてくる前の、垓下で敵に囲まれている項羽の話がもとになっています。

※「四面楚歌」は、「日本語探訪(その118)」で紹介予定です。

 

鴻門之会(こうもんのかい)」は項羽と劉邦の戦いの序盤の山場。劉邦陣営が生き延びようと画策します。

 

左遷(させん)」は秦を滅ぼした後、項羽劉邦を僻地へと追いやった話が元になっています。

※「四面楚歌」は、日本語探訪(その52)特別企画「右と左の物語」②「右上位」の世界で紹介しています。

左遷

「左遷」の読み方

 させん

 

「左遷」の意味

高い官職から低い官職におとすこと。また、官位を低くして遠地に赴任させること。左降。(広辞苑

 

「左遷」の使い方

 閑職に左遷される。

 

「左遷」の語源・由来

「左遷」の出典は、『史記項羽本紀です。『史記』は、中国の歴史書で、前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂されました。 

 

高祖曰:「吾極知其左遷,然吾私憂趙王,念非公無可者。公不得已彊行!」

 

高祖(劉邦)は言った。「吾れ極めて其の左遷することを知れり。…」

会話部分を現代語に訳すと、

「私もこれが左遷であるとはわかっているが、趙王(ちょうおう)のためを思うとお前(周昌=しゅうしょう、高祖劉邦の側近)にしかできないのだ。強いて行ってくれ」。

 

背景を含めて説明します。

項羽(こうう)は劉邦(りゅうほう)と「鴻門の会(こうもんのかい)」(紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事)を終えると、秦を滅ぼしその首都咸陽(かんよう)を焼き払います。

その後中国全土の領土を武将たちに分け与えますが、秦打倒で大きな功績を立てた劉邦だけは警戒し辺境の地である巴・蜀・漢中を与えて追っ払います。
「巴・蜀道険、秦之遷人皆居蜀」(巴・蜀は道険にして、秦の遷人みな蜀に居る)…巴や蜀は道が険しく、しかも蜀には秦の流人どもが追いやられている…
つまり劉邦は土地を与えられたといってもひどく辺境な、誰もが行きたがらない場所を与えられたのです。

巴は現在の四川省重慶、蜀は同じく四川省成都のこと。漢中とは陝西省南部の地域を表します。つまり中国大陸の中心地・中原(洛陽周辺)からすれば左側、ここから「左遷」の語は生まれたと言われています。

 

先んずれば人を制す」は項羽たちの旗揚げ時の出来事が元となっています。

 

背水の陣」は劉邦陣営の韓信の話です。

※「背水の陣」は、日本語探訪(その38)故事成語「背水の陣」で紹介しています。

 

敗軍の将は兵を語らず」は背水の陣を敷いた韓信が倒した李り左車(さしゃ)の言葉です。