教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(その118) 故事成語「四面楚歌」

小学校のうちに知っておきたい故事成語の第40回は「四面楚歌」です。

 

四面楚歌

 

「四面楚歌」の読み方

しめんそか

 

「四面楚歌」の意味

たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること。楚歌。(広辞苑

 

「四面楚歌」の使い方

主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。(尾崎士郎『人生劇場』1933年)
 

「四面楚歌」の語源・由来

「四面楚歌」の出典は、『史記』「項羽本紀」の中の「四面楚歌」です。

 

項王軍壁垓下。
兵少食尽。
漢軍及諸侯兵、囲之数重。
夜聞漢軍四面楚歌
項王乃大驚曰、
「漢皆已得楚乎。
是何楚人之多也。」
項王則夜起飲帳中。
有美人、名虞。
常幸従。
駿馬、名騅。
常騎之。
於是項王乃悲歌忼慨、自為詩曰、

力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何

歌数闋、美人和之。
項王泣数行下。
左右皆泣、莫能仰視。

【読み下し文】

項王の軍垓下に壁す。
兵少なく食尽く。
漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。
夜漢軍の四面楚歌するを聞き、
項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰はく、
「漢皆已(すで)に楚を得たるか。
是(こ)れ何お楚人の多きや。」と。
項王則(すなは)ち夜起(た)ちて帳中に飲す。
美人有り、名は虞(ぐ)。
常に幸せられて従ふ。
駿馬(しゆんめ)あり、名は騅(すい)。
常に之に騎す。
是(ここ)に於(お)いて項王乃ち悲歌忼慨(かうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰はく、

力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ 時利あらず騅逝かず
騅逝かざる奈何(いかん)すべき 虞や虞や若(なんぢ)を奈何せん、と。

歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和す。
項王泣(なみだ)数行下る。
左右皆泣き、能く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。

【現代語訳】

項王軍は垓下の城壁の中に立てこもった。
兵の数は少く食料も尽きた。
漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲んだ。
夜、周りを取り囲んだ漢軍が全員で楚の地方の民謡を歌うのを聞いた。
項王は(思いがけないことで)たいへん驚いてこう言った。
「漢はことごとくすでに楚を得てしまったのか。何と楚の人間が多いことだ。」
項王はそこで夜中(にも関わらず)起きあがり、陣の帳の中で宴を張った。
虞という名前の美人がいた。
常に項王に寵愛されつき従がっていた。
騅という名の駿馬があった。
常に項王はこの馬に乗った。
そこで項王は悲しげに歌い、憤り嘆いて、自ら詩を作った。

我が力は山をも引き抜き、我が気はこの世をも覆う
時の運は我に利なく、駿馬騅も疲れ果て走れない
騅が走らない、どうしたらよいのか
虞よ虞よ、汝をどうしたらよいのか

項王は繰り返し歌い、虞もともに歌った。
項王ははらはらと涙を流した。
左右の者たちも皆泣き、誰も仰ぎ見ることができなかった。

 

「中国語スクリプト」のページから、「四面楚歌」の故事を紹介します。

f:id:yosh-k:20210924084311j:plain

「四面楚歌」の故事の場所(歴史地図)。垓下での出来事です。

劉邦と天下を争う項羽の軍隊は垓下(がいか 現在の安徽省宿州市)に砦を築きます。兵士の数は減り食糧も乏しく敵の兵がこの砦を幾重にも取り囲んでいます。夜になると劉邦軍の兵士が項羽の故郷、楚その歌を歌う声が聞こえてきます。項羽はこれを聞いて驚き「楚の人間はみな敵に寝返ってしまったのか」と嘆きました。ちなみに楚とは中国の江南地方にあった地域名(元は国名。のちに秦に滅ぼされる)で、項羽はこの楚にある貴族の家柄の出。姓を項、名を籍、字を羽といい、一般に項羽と呼ばれます。

項羽は別れの杯をかわそうと床から起き帳(とばり)の中に入ります。この戦いにずっとついてきた虞美人(ぐびじん)という名の愛妾もいっしょです。また騅(すい)という名の名馬もそばにいます。ここで項羽は詩を作ってそれを朗詠するのです。

項羽の歌 省略します)

この歌を何度か繰り返し歌っていると虞美人もともに声を合わせます。項羽は涙を流し、お供の者も皆嗚咽をもらし顔を上げるものもおりません。

項羽はこののち劉邦軍の追撃を振り払って東方の烏江(うこう 現在の安徽省を流れる川)に向います。この時項羽に従う者は28人。項羽もここを最期の場所と覚悟を決めます。

烏江では宿場の長(おさ)が船出の用意をして待っており、項羽にこう申し出ます。

「長江の東、江東の地は小さいところではありますが、そうは言っても千里四方の広さがあり、住民の数も数十万を数えます。大王様、どうかここを領地に捲土重来を期してください。急いで向こう岸に渡りましょう。船はこれ一艘のみ、渡ってしまえば劉邦軍はついてはこられません」

すると項羽は笑って

「天が私を滅ぼそうとしているのだ。今さらこの川を渡ってどうする?江東の若者八千人とここから西に向かって出陣したのだ。その一人とて今生き残ってはおらぬ。その親にどの面下げて会えると言うのか。彼らが文句を言わなかったとしても、私は私を恥じずにはいられない」

さらにこの長に向かって

「立派な人物とお見受けする。この馬を見てくれ。この馬に乗って五年、当たるところ敵なしだった。ともに一日に千里を走った。殺すには忍びない。こいつを引き取ってはもらえぬか」

項羽は武者全員に馬から下りるよう命じ、それぞれが短い刀剣一つで追ってきた敵と戦いました。項羽ひとりで数百人の敵を倒し、自身も十か所以上の傷を負いました。劉邦軍の騎兵隊長・呂馬童(りょばどう)を見て「お前はわしの顔なじみではないか」と言うと、相手も項羽を見て「ああこれは項王だ!」と叫びます。項羽は「この首には莫大な賞金が掛けられ、得た者は万戸の諸侯になれると聞く。お前にくれてやろう」と言うや自分で自分の首を切り落としたのでした。


この悲壮な物語から生まれた故事成語が「四面楚歌」です。楚の人間が楚の歌に囲まれるのですから、なぜ周囲がみな敵という意味になるのか不思議です。実は味方がみな寝返り、敵方に回って自分を包囲しているという話からできた故事成語なのです。

 

「四面楚歌」の蘊蓄

「四面楚歌」の関連語

「中国語スクリプト」の「四面楚歌」ページに、「『四面楚歌』の関連語」として次の語が紹介されています。

 

捲土重来(けんどちょうらい)」は、四面楚歌の後、垓下から落ち延び烏江にたどり着いた後の項羽の話がもとになっています。

※「捲土重来」については、日本語探訪(その112)故事成語「捲土重来」を参照してください。

 

鴻門之会(こうもんのかい)」は項羽と劉邦の戦いの序盤の山場。劉邦陣営が生き延びようと画策します。

 

左遷(させん)」は秦を滅ぼした後、項羽劉邦を僻地へと追いやった話が元になっています。

 

先んずれば人を制す」は項羽たちの旗揚げ時の出来事が元となっています。

 

背水の陣」は劉邦陣営の韓信の話です。

 

敗軍の将は兵を語らず」は背水の陣を敷いた韓信が倒した李り左車さしゃの言葉です。