教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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日本語探訪(その52) 特別企画「右と左の物語」②「右上位」の世界

「右上位」の世界

 

前回の終わりに、漢字が成立していく漢の時代は、「右尊左卑」(左は右に対して、下であり卑しい、劣るという考え)の社会であったと書きました。

 

「右尊左卑」(以下、「右上位」とします)の観念は、漢字そのものにも影響しましたし、漢字で書かれた文章にも影響しました。

日本に漢字が伝わったのは、4世紀後半ごろとされています。

伝えられたのは漢字だけではありません。漢字で書かれた文章や、そこに流れている「右上位」の考え方も同時に伝えられました。

そのいくつかは、いまも私たちの生活の中に現役で存在しています。

 

左遷

「左遷」の読み方

 させん

 

「左遷」の意味

高い官職から低い官職におとすこと。また、官位を低くして遠地に赴任させること。左降。(広辞苑

 

「左遷」の使い方

 閑職に左遷される。

 

「左遷」の語源・由来

「左遷」の出典は、『史記項羽本紀です。『史記』は、中国の歴史書で、前漢武帝の時代に司馬遷によって編纂されました。 

 

高祖曰:「吾極知其左遷,然吾私憂趙王,念非公無可者。公不得已彊行!」

 

高祖(劉邦)は言った。「吾れ極めて其の左遷することを知れり。…」

会話部分を現代語に訳すと、

「私もこれが左遷であるとはわかっているが、趙王(ちょうおう)のためを思うとお前(周昌=しゅうしょう、高祖劉邦の側近)にしかできないのだ。強いて行ってくれ」。

 

背景を含めて説明します。

項羽(こうう)は劉邦(りゅうほう)と「鴻門の会(こうもんのかい)」(紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事)を終えると、秦を滅ぼしその首都咸陽(かんよう)を焼き払います。

その後中国全土の領土を武将たちに分け与えますが、秦打倒で大きな功績を立てた劉邦だけは警戒し辺境の地である巴・蜀・漢中を与えて追っ払います。
「巴・蜀道険、秦之遷人皆居蜀」(巴・蜀は道険にして、秦の遷人みな蜀に居る)…巴や蜀は道が険しく、しかも蜀には秦の流人どもが追いやられている…
つまり劉邦は土地を与えられたといってもひどく辺境な、誰もが行きたがらない場所を与えられたのです。

巴は現在の四川省重慶、蜀は同じく四川省成都のこと。漢中とは陝西省南部の地域を表します。つまり中国大陸の中心地・中原(洛陽周辺)からすれば左側、ここから「左遷」の語は生まれたと言われています。

 

 

 

座右の銘

座右の銘」の読み方

ざゆうのめい 

 

座右の銘」の意味

常に身近に備えて戒めとする格言。ざうめい。 (広辞苑

 

座右の銘」の使い方

「あなたの座右の銘はなんですか?」

 

座右の銘」の語源・由来

座右の銘」の由来は、後漢時代の詩人、崔瑳(さいえん)が綴った「座右銘」です。

 

座右銘

無道人之短(人の短を道無かれ)
無説己之長(己の長を説く無かれ)
施人慎勿念(人に施すに慎みて念勿かれ)
受施慎勿忘(施しを受くるに慎みて忘る勿れ)
世誉不足慕(世誉慕うに足らず)
唯仁為紀綱(唯,仁にして紀綱と為す)
隠心而後動(心を隠って後動ぎ)
誘議庸何傷(誘議〈非難〉庸に何ぞ傷せんや)
無使名過実(名は実に過ぎ使める無し)
守愚聖所蔵(愚を守るは聖の蔵する所)
在浬貴不繕(浬〈黒〉在りて不縞二黒でない=を貴ぶ)
曖々内含光(曖〈暗い〉暖内に光を含む)
柔弱生之徒(柔弱生の徒〈ともがら〉)
老氏誠剛彊(老氏剛彊〈強い〉を議しむ)
行々鄙夫志(行々〈気の強いさま〉鄙夫〈心の狭い卑しい男〉の志)
悠々救難量(悠々故に量り難し)
慎言節飲食(言を慎しみ飲食を節し)
知足勝不詳(足を知りて不詳〈詳しくない〉に勝る)
行之萄有恒(之を行うに萄〈草の名〉に恒〈とこしえに〉有り)
久々自券芳(久々として自ら券芳〈香り〉す)

 

座右とは、自分が座った時の右側を示します。「銘」とは、石や器に歴史上の人物の言葉を記したものです。

昔の皇帝など位の高い人は銘に自分が尊敬する過去の人の言葉を記し、自分の右側に置いていたと言われています。皇帝にとって右側というのは、自分がもっとも信頼する補佐役などを座らせる場所です。このことから、自分にとって重要な右側に置くほど大切な言葉という意味で座右の銘と言われるようになったとされます。



右に出る者はいない

「右に出る者はいない」の読み方

みぎにでるものはいない 

 

「右に出る者はいない」の意味

その人よりもすぐれた人はいない、ということ。(故事成語を知る辞典)

 

「右に出る者はいない」の使い方

将棋の世界では彼の右に出る者はいない。

 

「右に出る者はいない」の語源・由来

「右に出る者はいない」の出典は、 『史記』田叔(でんしゅく)列伝です。

 

漢初的田叔本是趙國陘城人,他的祖先則是齊國田氏。田叔喜歡劍術,又曾向樂巨公學習黃老之術。他的個性嚴正清白,並以此自喜,經常和一些德高望重之人交往。後來趙國人把田叔推薦給趙相趙午,趙午又在趙王張敖面前稱讚他,於是趙王任命田叔為郎中。不久,陳豨在代地造反,高祖前去討伐,途中經過趙國。趙王十分恭敬地親自端著食盤獻食,高祖卻傲慢地蹲踞在席上,又大聲責罵趙王。趙午等數十人聽了之後,都非常生氣,對趙王說:「大王事奉皇上完全合乎禮節,皇上卻對大王如此無禮,我們實在看不過去,決定要造反報仇。」趙王聽了之後,氣得咬破了自己的指頭,駁斥道:「我們的祖先失去了國家,如果沒有皇上,我們都會死無葬身之地,屍體任蟲啃食。你們怎麼可以忘恩負義!不要再說這樣的話了!」貫高等人知道趙王不願做個背德忘恩之人,便私下共謀刺殺高祖。不料事機敗露,高祖便下令逮捕趙王及所有參與謀反之人。趙午等人不願屈服,於是都自殺了,只有貫高就縛。當趙王將被押解到京師時,朝廷又下了一道詔書,說:「趙國如果有人敢跟隨趙王進京,就誅殺三族。」田叔、孟舒等十餘人於是穿著罪囚之衣,截去頭髮,又以鐵環束頸,假稱是趙王的家奴,跟著趙王一起被押解到了京師。到了京師之後,貫高坦承謀反的事件是他們一手策劃的,趙王完全不知情,於是高祖饒恕了趙王的性命,廢為宣平侯。後來趙王向高祖推薦田叔等人,都獲得高祖的召見。武帝跟他們談話之後,發現他們的才能出眾,朝中的大臣沒有一個比得上他們,十分高興,就任命他們全都做了郡守或諸侯的國相,田叔也被封為漢中郡守。後來「無出其右」這個成語,就從原文「毋能出其右」演變而出。因古時以右為尊,故「無出其右」就用於表示沒有人能勝過他。

 

無出其右(その右に出ずる者なし)

 

「中国語スクリプト」をもとに解説します。

漢の高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)が趙(ちょう)に立ち寄った時の話です。
漢の高祖(劉邦)が趙に立ち寄った時、趙王に対して失礼な態度を取りました。趙の宰相はそれを見て激怒し、自分たちだけで高祖暗殺を企てます。この企ては失敗し、趙王と宰相およびその仲間は捕縛され漢の都(長安)に連行されました。その時高祖は「こやつらについてくる趙人は一族皆殺しにする」と宣言します。しかし田叔(でんしゅく)たち何人かは奴隷姿に身をやつし趙王についていきました。
漢の都・長安についてから、この暗殺計画と趙王は無関係であることがわかり、趙王は釈放されます。この時趙王は自分に従ってついて来た者は奴隷ではなく自分の臣下であると明かします。
高祖が彼らに謁見してみると皆すばらしい人物で、漢の臣下で「彼らの右に出る者はいない」ほどでした。そこで高祖は喜び、彼らを諸侯の宰相などに任命しました。

 

 

次回は、「左上位」の世界です。