教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 3月4日

円の日

 

1869(明治2)年3月4日、明治政府が貨幣を円形として金銀銅の貨幣を鋳造する円貨の制度を定めました。

 

ということになっているのですが、話は少し複雑です。

 

会計官(同年中に大蔵省となる)兼務を命ぜられた大隈重信は、1869(明治2)年3月4日、貨幣政策担当者の久世治作とともに、新政府の議事機関である議事院に対して新貨幣制度について建議しました。
・楕円形、四角形など複数あった貨幣の形を円形に統一すること。
・「両・分・朱」という貨幣の名称を廃止して「元・銭・厘」という価名単位にすること。

 

明治4年5月10日(1871年6月27日)、「新貨条例」(明治4年5月10日太政官布告第267号)が布告され、「円・銭・厘」という新しい通貨単位が定められました。

 

この間の経緯に関して、「雑学ネタ帳」には次のようにあります。

通貨政策を担当していた大隈重信はそれまでの「両」に代えて最初に提案したのは「元」だった。結果として「元」ではなく「円」になったわけだが、その理由は、日本銀行の貨幣博物館では以下の3つの説を紹介している。

①楕円形、四角形など複数あった形を持ち運びしやすいよう円形に統一した。②製造モデルとなった香港銀貨「壱円」をまねた。③円銀などと呼ばれていた中国の円形通貨が伝わった。

この他にも諸説があるが、火災で経過をたどる公文書が消失しており、証拠となる史料がないため、どれが正しいかは分かっていない。

また、「今日のことあれこれと・・・」には次のように記されています。

1869(明治2)年明治新政府は、2月5日、太政官造幣局を設置。1870(明治3)年の今日(3月4日)新円貨定まる。(「円貨」の制度を決め、翌年、銅貨・銀貨・金貨を鋳造する。)
では何故、このときの新貨幣が「円」に定められたのか?・・・今日は、円の日に因んで円のお話を・・・。
新通貨を「円」と定めたことについては、諸説あるが、次の3説が有力な説のようである。
楕円形、方円、円形などの貨幣の形状を、すべて円形に統一することとしたので円と名づけた。
江戸時代末期に知識層等の間で、金貨の単位の「両」を「円」と呼ぶ習わしがあり(例えば、1863年佐久山象山が勝海舟に宛てた手紙の中にも「横浜にては、7~8円にて手に入り可申」云々という表現がある)、こうした呼称を明治政府が正式に採用した。
洋式近代貨幣製造のため英国香港造幣局の造幣機械を譲り受け、技術者も招いて香港銀貨と同重量、同品位の銀貨を製造することとした関係から、香港の銀貨に表示されていた単位である「圓」という呼称を採用した・・・などである。
他にも、 貨幣を造る時に、大隈重信公が「親指と人差し指で丸を作れば誰でもお金であることがわかるのだから、その形状を円いもの(円形)にする方がよい」と主張したことから、その呼称も便宜上「円」としたという説などもある。・・・。
このことは、「明治貨政考要」によっているようであるが、しかし、1869(明治2)年3月4日、大隈重信は久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び「元・銭・厘」の価名単位で建議したが、出来上がった試作貨では「一圓」になっており、大隈重信の建議から発行されるまでには、元から円に変更されたことになり、この円命名については、紆余曲折の経過で最終的に円が選ばれたようである。

 

当時の表記は旧字体の「圓」でした。

Wikipedia」の記事が興味深いです。

「円(圓)」という単位名は中国に由来する。

 

中華人民共和国の通貨単位である「元」の正式名称は「圆(=圓・円)」である。かつて「"圓"の画数が多い」という理由で、その代わりに同音 (yuan) の「元」が当てられ、今日に至る。

韓国・北朝鮮の「ウォン」も「圓(=円)」の朝鮮語読みである(ただし現在はウォンの公式な漢字表記はない)。

香港特別行政区香港ドルマカオ特別行政区マカオ・パタカ、中華民国の新台湾ドルも、区内・国内での名称は「元」ないし「圓」であるほか、モンゴルの通貨単位であるトゥグルグモンゴル語で「圓」と同義である。

すなわち、これら東アジアの諸通貨は、みな本質的には「圓」という名称を共有しているといえる。