1890(明治23)年11月29日、前年の大日本帝国憲法発布を受けて初の「帝国議会」が開かれました。
「ベネッセ」のHPより引用します。
【近現代(明治時代〜)】 立憲制の国家とは
立憲制の国家とは,憲法を制定し,憲法にもとづいて議会で政治を行う国家のことです。
■日本が立憲制の国家になるまで
明治新政府の政治の基本方針である,五箇条の御誓文が出されました。(1868年)
世論を大切にして政治を進めることなどが明らかにされていましたが,実際の明治新政府は,旧薩摩藩や旧長州藩などの出身者が政治を独占していました。
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この政治を不満として,1874年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出し,これをきっかけに国民の政治参加を求めて,国会の開設などを要求する自由民権運動が始まりました。
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1881年,政府が国会開設を約束(国会開設の勅諭)すると,国会開設にそなえて,政党が結成されました。
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国会開設をひかえて政府は,1882年から1883年にかけて伊藤博文をヨーロッパへ派遣し,ヨーロッパの国々の憲法を調べさせました。
そのなかで,君主の権力が強いドイツ(プロイセン)の憲法を手本に憲法の草案がつくられました。
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1885年,国会開設にそなえ内閣制度がつくられ,伊藤博文が初代の内閣総理大臣になりました。
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1889年,天皇が国民に与えるという形で,大日本帝国憲法が発布されました。
天皇が国の最高権力者であるとされ,国民の権利は法律の範囲内で認められました。憲法が制定され,第一回衆議院議員総選挙(有権者は,直接国税を15円以上納めている満25歳以上の男子に限られた)が行われました。
制限はありましたが,選挙で選ばれた人が帝国議会に参加できるようになりました。(1890年)
※大日本帝国憲法は東アジアで最初に制定された憲法で,これによって日本は憲法にもとづいて議会で政治を行う近代的な立憲制の国家となりました。
「中学受験ナビ」の記事が読み物としても面白いので紹介します。
明治時代【3】大日本帝国憲法と国会開設 ―― イメージで覚える中学受験歴史
板垣退助が中心となって進められた自由民権運動の勢いはますます強まり、各地で盛り上がりを見せていきます。一方で「藩閥政治をひっくり返されるかもしれない……」という不安を抱いていた政府にとって、自由民権運動を推進する人たちは都合が悪い存在。そこで政府の悪口を新聞や雑誌に書いてはいけない条例や、役人の悪口を禁止する法律などをつくり、きびしく取り締まりました。
こうした激動のさなか、ついに「大日本帝国憲法」が発布され、日本初の国会が開設されます。
明治時代は「3つのかたまり」でイメージしよう
①スタート=明治維新 …… 明治新政府が政治をするためのルールづくり
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで(←前回の続き)
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正北海道開拓使官有物払い下げ事件
政府が自由民権運動の取り締まりを強化するなか、その政府が事件を起こします。当時、開拓使の屯田兵(とんでんへい)たちが頑張って開拓していた北海道には、官営の施設がたくさんありました。官営とは「政府が経営する」という意味です。そんな官営の施設を、北海道開拓使の長官・黒田清隆(きよたか)が友達に破格の値段で売っていたのです。実に1400万円相当のものを30万円ほどで、しかも利息なしの30年払い……。もはや、タダであげたも同然です。
この事件は「北海道開拓使官有物払い下げ事件」と呼ばれ、板垣退助や自由民権運動賛成派の人たちから「国民が頑張って払っている税金を何だと思っているんだ!」「わいろ政治反対!」と非難されました。そして以下のようなやり取りを経て、自由民権運動賛成派の人たちは「10年後に国会を開くこと」を政府に約束させます。
自由民権運動賛成派:国会をつくれ!
政府:つくらん!
自由民権運動賛成派:そうか、じゃあ政府の払い下げ事件を国民にバラすぞ!
政府:それだけは勘弁してくれ。わかった、10年後に国会を開くことを約束しよう……そして1881年、天皇から「国会開設の詔(みことのり)」が出されました。「詔」は、天皇のお言葉という意味です。このとき、大隈重信(おおくましげのぶ)が明治政府から追放されてしまいます。自由民権運動の人々とつながっていたから、というのがその理由です。ちなみに、大隈重信は早稲田大学の創始者としても有名ですね。
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