教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 12月26日

プロ野球誕生の日 

 

1934(昭和9)年12月26日、東京・丸の内の日本興業倶楽部で大日本東京野球倶楽部の設立総会が開かれ、日本初のプロ野球チームが誕生しました。これが、読売巨人軍の前身です。

 

「tenki.jp」に掲載されている記事を紹介します。

なぜ、12月26日はプロ野球誕生の日?
1934年の12月26日に日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」が設立されました。
のちの読売巨人軍となるチームです。当時、読売新聞社社長の正力松太郎は、アメリカのメジャーリーグ選抜軍を日本へ招待することに注力しました。

しかし、一つ大きな問題が発生したのです。当時の日本の野球といえば、大学野球が全盛でした。
ですが、当時の文部省が発令した野球統制訓令により、外国チームと大学チームが対戦することはほぼ不可能に。
そのため、日本にもプロチームを発足させることになったのです。

1934年11月2日に野球の神様といわれるベーブ・ルースら、アメリカ選抜が来日。
そのチームとの対戦に感化され、1934年12月26日に正式に日本初のプロ野球チームの歴史が始まったのです。

ベーブ・ルース神対応
アメリカチームが来日した当時はまだ飛行機がなかった時代でしたので、海外に行く手段といえば船でした。
アメリカから日本ですから、かなりの長旅です。正力松太郎が最も日本に呼びたかったベーブ・ルースですが、本人は当初は、日本行きをかなり渋っていたそう……。
そんな中、日本チームのマネージャー的役割を担っていた鈴木惣太郎が、ベーブ・ルースの似顔絵をメインにしたポスターを本人に見せたところ、喜んで快諾したというエピソードも。そんな人のよさもベーブ・ルースの魅力だったのでしょう。

さらに、ベーブ・ルース神対応なエピソードをもう一つ。
無事来日したアメリカチームは、15戦全勝と圧倒的な強さを日本人に見せつけました。
しかしながら、日本側もただ負けていたわけではありません。エースの沢村栄治ベーブ・ルースを見事三振に打ち取るなど、その力投は日本国民を大いに沸かせたといいます。
さらに、試合が開催されたのは肌寒い秋の時期だったこともあり、沢村がランナーで塁に出た際、ベーブ・ルースが投手の沢村を気遣い、自らセーターを着せに行ったという心温まるエピソードも……。
敵チームながら紳士的な対応はあっぱれ。さすがベーブ・ルースですね。

アメリカ遠征でチーム名が「ジャイアンツ」に決まる
ベーブ・ルースらが来日した翌年、今度は日本チームがアメリカ遠征を実現させました。
現地のマイナーチームとの対戦を重ね、アメリカの人々からの人気も上々でした。
しかし、ネックだったのはそのチーム名でした。そのチーム名といったら「大日本東京野球倶楽部」。
長すぎてなかなか覚えにくいチーム名であることは一目瞭然です。

そこで、アメリカ遠征の際に、チームのニックネームも考えられました。
アメリカ現地でこのチームの顧問であったフランク・オドゥールが、ニューヨークジャイアンツに在籍していたことから「ジャイアンツ」のニックネームがつけられたのです。
読売巨人軍の「巨人軍」はそのジャイアンツを日本語にしたものです。由来を知ると、野球の歴史が見えてきますね。

もしも、ベーブ・ルースが日本に来ていなかったら……、日本がアメリカに行っていなかったら……、
12月26日にプロ野球は誕生していないかもしれません。
野球界のみならず、日本のプロスポーツ界にとっても12月26日は大事な一日といえそうです。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1934年(昭和9年)のこの日、アメリカのプロ野球との対戦のため、現存する中では日本最古のプロ野球チーム・大日本東京野球倶楽部読売巨人軍の前身)が創立された。

同倶楽部は、全日本代表チームの選手を中心にした選手19名により結成された。このチームが練習した場所に由来して、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津(やつ)球場があった千葉県習志野市谷津バラ園入口脇に設けられており、長嶋茂雄(ながしま しげお)・王貞治(おう さだはる)・原辰徳(はら たつのり)ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形とサイン付きの石のプレートが並べられている。

読売巨人軍発祥の地」の碑

「読売巨人軍発祥の地」の碑

日本のプロ野球の歴史は巨人の歴史といっても過言ではない。当時人気の「六大学野球」に対して「職業野球」と蔑視されながら、ノーヒットノーランを3回達成した豪腕・沢村栄治(さわむら えいじ、1917~1944年)、初の三冠王中島治康(なかじま はるやす、1909~1987年)らを擁し、高い技術を見せ付けて次第にファンを獲得していった。太平洋戦争で中断されるまでの11シーズンで8回の優勝を飾り、第一次黄金時代を築いた。

沢村栄治

沢村栄治

太平洋戦争が勃発したのは1941年(昭和16年)のことである。戦争の影響で日本職業野球連盟(現:日本野球機構)より英語禁止の通達が出され、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「GIANTS」から漢字の「巨」に、球団旗の「G」も「巨」に変更されたという歴史がある。