教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 7月26日

ポツダム宣言記念日

 

1945(昭和20)年7月26日、アメリカ合衆国中華民国、イギリスの3か国の首脳が日本に無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」をドイツ郊外のポツダムで発表しました。

 

ポツダム宣言」については「Wikipedia」より引用します。

ポツダム宣言


ポツダム宣言ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」ともいう。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。

日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。

ファイル:President Truman announces Japan's surrender.jpg

1945年8月14日、ホワイトハウスにて日本のポツダム宣言受諾を発表するハリー・S・トルーマン米国大統領

概要
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびアメリカのトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。事後報告を受けたソ連スターリン共産党書記長は署名していない。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言は初めて外交文書として固定された。

 

ポツダム宣言

合衆国、中国及び連合王国首脳の承認による日本の降伏のための定義及び規約

1945年7月26日、ポツダムにて

1. 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。

2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。

3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。

4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選択すべき時が到来したのだ。

5. 我々の条件は以下の条文で示す通りであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅延は認めない。

6. 日本国民を欺いて、世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。

7. 第6条の新秩序が確立され、日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるに至るまで、連合国は日本国領域内の諸地点を占領するであろう。

8. カイロ宣言の条項は履行されなければならず、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我々の決定する諸小島に限定されることになる。

9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。

10. 我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるであろう。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるし、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるであろう。

11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また、将来的には国際貿易に復帰が許可される。

12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に、占領軍は撤退するであろう。

13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。右以外の日本国の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

 

ポツダム宣言」受諾までの流れを「日本史事典.com」より紹介します。

ポツダム宣言受諾までの流れ


①日本は「黙殺」
時差の関係もあり、日本に伝わったのは翌日の27日でした。

外務大臣東郷茂徳はこれを拒否すると重大な結果を生む、しかしまだ交渉の余地はあるので今は黙っていたほうが賢明だろうと考えました。

一方陸海軍は反発します。いずれ国民にも伝わるので先に断固抵抗する旨発表するべきだと主張したのです。

結局政府としては東郷の意見を採用し、内容については公式発言を控える、ということで閣議決定しました。

翌日、改めて陸軍から政府が宣言を無視することを正式に表明すべきと強固な要求を受けたこともあり、鈴木貫太郎首相は記者会見を開きます。

そこで鈴木首相は「ノーコメント」という意味合いで「黙殺」という表現を使いました。

この言葉を日本の通信社は外国向けに「ignore(無視する)」と訳して伝えましたが、海外の新聞では「reject(拒否)」と伝わってしまいました。


アメリカの対応
アメリカの大統領はルーズベルトが急死したため、トルーマンが就任していました。

トルーマンは日本がポツダム宣言を最初は拒絶してくることは折り込み済みでした。

むしろポツダム宣言の拒否によって、日本への原爆投下を正当化しようと考えていたのです。

そして、ポツダム宣言と核攻撃を組み合わせることで日本を降伏させようと考えていました。


③原爆投下とソ連の参戦
1945年8月6日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下されました。そして、3日後の8月9日には長崎へ2つ目となる原爆が投下されました。

一発の爆弾で広島・長崎は甚大な被害を受けることになります。

また、9日未明にソ連軍が日ソ中立条約を破り、国境を突破。満州や朝鮮北部・千島列島になだれ込みます。同時にソ連ポツダム宣言に参加しました。

打つ手のなくなった鈴木首相は最高戦争指導会議で「ポツダム宣言受諾やむなし」の方針を出します。

またその会議中に長崎へ二発目の原爆が投下されたことが報告されます。

一人、陸軍大臣阿南惟幾のみが戦争継続を主張しますが、「国体護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦争裁判への参加」を条件に宣言を受諾する方針が優勢となりました。


ポツダム宣言の受諾、そして終戦へ 
宣言を受諾する、ということでは閣内は一致したものの、受諾の際にどういう条件をつけるか、ということがまとまりませんでした。

すなわち、「天皇の地位存続のみを条件」とする外務大臣案とそれに「日本軍の自発的な撤退と内地における武装解除」「戦争責任者の日本による処断」「保障占領の拒否」の3点を加える陸軍大臣案の二つに意見がわかれたのです。

10日未明の昭和天皇臨席の御前会議でもまとまらず、やむをえず鈴木首相は天皇の判断を仰ぐことにしました。いわゆる「ご聖断」です。

昭和天皇外務大臣案を採用すると表明します。もはや勝ち目がないこと、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、国民や世界の人々を救うためにはこれしかない、というのが理由でした。

その結果「天皇統治の大権を変更しない」という了解のもとポツダム宣言を受諾することが中立国であるスイスとスウェーデンに向けて送信されました。

アメリカ側はこれを受け12日、「天皇及び日本政府の国家統治権連合国軍最高司令官にsubject toする」という返答をします。

日本はこのsubject toを「制限の下におかれる」と捉えた外務省と、「隷属する」と捉えた軍部の間で対立。軍部強硬派は国体護持について再照会を主張します。

やがて駐スウェーデン公使から、アメリカの回答は日本の申し入れを受け入れたもの、という報告が届き、14日ようやく政府は宣言受諾を決定。同日、終戦詔勅も発せられました。

翌15日、政府は国民に向け、ポツダム宣言の受諾と降伏決定を発表。昭和天皇が直接国民に語りかけるという形が取られます。

戦前は天皇陛下の声が国民に放送されるというのは異例のことでした。

この玉音放送の前に陸軍の一部がクーデターを起こす計画がありましたが、未遂で終わりました。

9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ上で降伏文書が調印され、第2次世界大戦は終結しました。