教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 12月14日

南極の 

 

1911(明治44)年の12月14日、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセン(Roald Amundsen、1872~1928年)と4人の隊員が世界で初めて南極点に到達しました。

 

Wikipedia」の「ロアール・アムンセン」より引用します。

南極点への到達


北西航路横断航海に成功したアムンセンは、次に北極点到達を目指した。探検家から政治家に転身したフリチョフ・ナンセンからフラム号を譲り受け、着々と準備を進めた。しかし、北極点探検の準備中、1909年4月6日にロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標をひそかに南極点に変更した。しかし、出資者や隊員にはこれを告げず、秘密裏のままに準備を進め、1910年8月に「北極探検のため」ノルウェーを出航した。

当時、ノルウェーから今回の探検の入り口とされたベーリング海峡に向かうにはアメリカ大陸を周航せざるを得なかったため、船が南に向かってもまったく怪しまれることはなかった。出航後、マデイラ諸島の首都フンシャルに寄港したさいに、北極点ではなく南極点を目指すことが乗組員にはじめて明かされた。アムンセンはこの際、これに反対するものは直ちに下船して去ってもかまわないと言ったが、乗組員はこの計画に賛意を示し、計画はスムーズに変更された。同時にノルウェーにもその旨電報を打ち、出資者の手が届かなくなってから公表された。探検出資者には「南極点に到達したのち北極を探検する」とし、これを拡大計画と称した。また、大西洋の寄港地から同じく南極探検の途上にあったロバート・スコット宛に「我南極に向かわんとす」との電報を送っている。スコットは途中寄航したオーストラリアのメルボルンにてこの電報を受け取った。この電報について英国側でははなはだ無礼で挑発的であり「突然のライバル出現にスコットは動揺し失敗の一因となった」と受けとめられている。もっともアムンセン本人は無礼な意図は毛頭無く「事前の連絡なしにいきなり南極で遭遇する方が却って無礼である」ということを自著などにおいて主張している。また、白瀬矗率いる日本隊の動向にも一時は注目したが、準備の様子を聞いただけで、ライバルにはなりえないと以後は無視している。実際、当時の日本隊はノルウェー人のスキーを見て、妙な板を履いているなどと書き残しており、根本的に準備不足だった。

1911年1月14日、アムンセン隊はロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極大陸に上陸し、そこにフラムハイム基地を建設。越冬と探検の準備を始めた。スコットはすでに1月2日に西側のロス島に上陸し基地を建設していた。アムンセン、スコット両隊は半年以上をかけてデポの作成や周囲の探索を行い、来るべき探検の準備を行った。南極点に向かいアムンセンの取るべきコースは、距離は1500kmでスコットよりも100kmほど短く、また基地周辺には食料となるアザラシが大量に生息していたものの、スコット隊のコースのほとんどが以前に探索されたものであるのに対し、アムンセン隊のコースはほとんど未探索のものであり、未知の土地を進まねばならない危険が存在した。

1911年10月20日にアムンセンは4人の選抜隊とともにフラムハイムを出発し、4台の犬ぞりを1台あたり13頭、計52頭に引かせて南極横断を開始する。途中好天にも恵まれてアムンセン隊は順調に距離を伸ばし、1911年12月14日、人類初の南極点到達を果たした。帰路も順調で、1912年1月25日に一人の犠牲者も出すことなくフラムハイムへと帰還した。

1911年12月15日、南極点に到達したアムンセン一行。左からアムンセン、ヘルマー・ハンセン(en)、スヴェレ・ハッセル(en)、オスカー・ウィスチング(en)。撮影は5人目のメンバー、ウーラフ・ビヤーラン(en)

当初スコット隊に比べて不利と思われていたアムンセンが先に到着したのは、スコット隊が学術調査を兼ねて長いルートを選んだ上、故障しやすい内燃機関を利用した雪上車や、体重が重く雪中での行軍に不向きな馬、牛革を重ねた形状の防寒服(防寒性は優れているが、耐水性に劣る)を採用していたのに対し、アムンセン隊は先述の極北航海の際に得た知識や経験を参考に、体重が軽い犬を利用し、自身で軽量化を施した犬ぞりを採用したこと(犬は非常時の食料も兼ねていた)や、耐水性に優れたアザラシの毛皮服を採用したことが理由のひとつとしてあげられる。南極点に作ったテントには、帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者にあてて自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼した手紙を残している。

帰還後は多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済した。特にアメリカにおいては英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごした。一方で、自国の悲劇の英雄スコットをひいきにするイギリスでは冷たく扱われた。独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となった。