教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

さねとうあきら『ばんざいじっさま』ーー8月の作家③

さねとうあきら文+井上洋介絵『ばんざいじっさま』
編集・発行「ベトナムの子供を支援する会」
1973年8月15日 初版発行

※絵本は絶版になっています。『神がくしの八月 (定本さねとうあきらの本 1) 』(てらいんく 2003.7.1 1980円)に収載されています。

 

絵本の「あとがき」には次のようにあります。

1945年6月30日深夜、秋田県北秋田郡花岡町にある花岡鉱山で中国人の暴動が起った。900人の中国人が鉱山会社から河川改修工事を請負っていた株式会社鹿島組(現在の鹿島建設ー当時は鹿島守之助社長)の残虐な酷使に反抗して蜂起した。
しかし、空腹と酷使による疲労とツルハシ以外武器を持っていなかった為全員が逮捕されるか殺された。
7月1日の夕方から三日間5~600人の中国人が炎天下、水さえ与えられず拷問され、100人が更に殺された。
東条内閣の決定で中国本土から強制連行されてきた4万人の中国人(この決定には岸信介賀屋興宣等現在の自民党首脳が加わっていた)のうち7000人が虐殺されている。
この絵本は、戦争中日本各地で無数に行われた中国人虐殺事件を元にして書いた創作です。

 

花岡事件」について、大館郷土博物館のHPより引用します。

 昭和19年から20年にかけて、986人(内、途中死亡7人)の中国人が花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ連行されました。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事させられ、道具はシャベルとツルハシ、モッコだけでした。
作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名のもとに激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上にも重くのしかかり、耐えがたい暴行と空腹で精神に異常をきたす者もでました。「中山寮」に強制連行された979人のうち137人が死亡し、更に暴行や栄養不良で身動きできない重症者が多くいました。
餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起するしかない」と考えました。寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定。しかし、計画が知れわたると規制がきかない者もでてきて統制は大きく崩れ、以後の組織的行動は不可能となりました。とりあえず逃走命令を発しそれぞれ逃げましたが、重症者の一群は神山付近で最初に捕まり、次に身体の弱っている一群が旧松峰付近で捕まってしまい、残る主力集団約300人も獅子ヶ森山中に逃げ込み抵抗はしたものの食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられてしまいました。
捕まった者たちは7月1、2、3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢でさらされました。3日の夜に雨が降ったため何人かは死なずにすみましたが、大勢が亡くなりました。
死体は10日間も放置されたあと、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で三つの大きな穴が掘られ埋められました。この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が亡くなりました。 終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出ている中国人の死体を見つけ、その日のうちに詳細な調査を開始しました。こうして「花岡事件」が明らかになっていきました。

 

『ばんざいじっさま』は次のようなお話です。

日露戦争の元勇士の万造じっさまは、村人に頼まれて出征兵士を「バンザイ」で送り出す存在でした。
「水岡」鉱山から逃亡した中国人を山狩りした際に、じゃがいも畑にへたっている男を見つけます。そしてその男が自分と同じ「百姓」であることを見抜き、かくまいます。
じっさまは憲兵に捕まり、厳しい取り調べを受けます。
瀕死の状態で家に戻ったじっさまに、村人は「非国民」との言葉を浴びせます。
じっさまは、部屋の真ん中に仁王立ちになって、両手をあげたまま死んでいました。宮城(きゅうじょう)の方を向いて…。

 

なんともやり切れない気分に襲われます。

そして、この「気分」の「正体」に気づいたとき、愕然とします。

 

さねとうさんの書かれた文章をいくつか紹介します。

 

『逆風に向けて羽ばたく』(春牛社 1986)所収「共同幻想をとりもどせるか」(初出は「児童文芸」81年新春増刊号)の一部を紹介します。

 創作民話のこのような展開につれて、本来民話の担い手である〈民衆〉のイメージもまた、急速な変化を遂げつつあるようにおもいます。かつての民衆は、権力によって虐げられつづけた無力な存在でした。一九五〇年代の民話論において、民衆はつねに善であり、権力に抵抗しつづけたと強弁されましたが、これとても歴史における民衆の役割をほとんど無視した<民衆無力論>の一変型にすぎませんでした。なぜなら、民衆をつねに被害者の側におくことで、歴史の担い手としての責任を追及されることから免れてきたわけですから。
 しかし、わたしの目からみれば、歴史を担ってきたものこそ民衆であって、指導者とか権力といったものは、それに支えられて咲いた仇花にすぎません。国民が営々として築きあげた日々の営みが歴史を動かすのであって、いかに権力者がその上に君臨しようとも、こういう営みを欠いては何事もなし得ないのです。いかなる金城楼閣も美田沃野も、民衆の労働の所産であって、権力者の力だけでできあがるものではありません。民話というものには、このような民衆の営みが刻印されており、それゆえに時代をこえて万人の心をうつのではないでしょうか。
 しかしながら、このような日々の営みが、必ずしも善なる方向に向うとは限りません。わたし自身、民衆の一員であるという自覚に立っていうことですが、民衆とはなんと自分勝手な生き物であろうと、嘆くことしばしばです。わたしの創作民話は、民衆のエゴイズムや民衆同士の暗闘を描くといわれておりますが、それというのもこのようなマイナス面をさておいては、民衆の生み出す歴史がまともな方向には向かわないであろうという、わたしの切実なおもいがこもっているのです。時には「民衆にこのような責任を問うのは酷だ」と反論される場合もありますが、戦争や公害のような社会悪といえども、それを担っているのは一人一人の国民であって、社会というものはその集合体にすぎないわけですから、巨悪の根源を民衆=庶民のレベルまで掘り下げない限り、真の解決はあり得ないとおもうのです。
 しかし、このような考えが一般的であるとは、わたしも考えておりません。 現在多くの人々が〈英雄偉人〉によって歴史はつくられたとおもいこんでいるように、民衆は民衆自身の歴史的役割や社会の責任を自覚していないのです。歴史学を教えている大学教授が「現在の学生は民衆史を好まなくなった。英雄豪傑の歴史を歴史とおもっている」と嘆いていましたが、困ったときにはきっと助けてくれる〈スーパーマン〉ばかりを待望していたら、民衆はまたしても歴史の悪に加担して、恥ずべき役割を果たしてしまうでしょう。

 

『解放教育』57号(1975.12)所収「わらいおおかみについて」では、より端的にこう述べています。

現代において、木下順二氏の文学に代表される『誤りなき民衆』像ともいうべきものは、だんだんと民衆自身からはなれていっているのではないか、と私は思っている。つまり、民衆ぐるみ、 間違えることがあるのではないか。歴史を変革さすというとき、この問題は真剣に考えなければならないことである。

 私には、民衆が歴史の主人公であるなら責任を負うのはまた民衆ではないのか、という考えがある。民衆があやまちを自責していくことが、歴史を変えていくことにつながることではないかと思っている。そのような責任を自らに課した人間こそが、未来を切り拓いていくのではないかと思っている。

 

『逆風に向けて羽ばたく』(春牛社 1986)所収「今日のような明日は来ない」(初出は「解放教育」1977年3月号)の一部を紹介します。

 今にしておもえば、わたしが児童文学の処女作『地べたっこさま』(理論社刊)をかいて、児童文学の世界に足を踏みいれた一九七二年という時期は、六〇年代から七〇年代にかけて、児童文学が劇的な転換をとげる分岐点にあたっていたようだ。
 わたしは、〈わたしにとっての六〇年代〉を総括するために、この作品をかいた。これをかかなければ、わたし自身の七〇年代が切りひらけないという、やみがたいおもいが、わたしをかりたてたのである。
 それは、「まじめに努力すれば、必ず報われる」とか「弱い者は団結して、強い者を必ずうち砕く」といった、洋の東西を問わず子ども向け文学のなかに横溢していた〈子どもだましの論理〉を追放し、いくらまじめに努力しても、ちっとも報われない場合もあれば、弱さのゆえに仲間を裏切って、強い者に身を売りわたすこともある、わたしが体験をもってたしかめた真実を、赤裸に子どもたちに示したかったのである。
 もとより、不信や絶望を教えるためにではない。きれいごとではすまされぬ社会の実相に目を向けることによって、それをのりこえていく力をつちかってもらいたかった。いや、こういう醜悪な現実をつくっているのも人間ならば、それを変革していくのも人間であることを、幼い子らの脳裏に灼きつけてもらいたかったのである。

 

さねとうあきら(實藤述)。

1935年1月16日生まれ、2016年3月7日没。

1972年、児童文学の処女作『地べたっこさま』で日本児童文学者協会新人賞受賞。

 

民衆が歴史の主人公であるなら責任を負うのはまた民衆ではないのか

 

さねとうあきらという作家は、じつに「こわい」人です。

そのすべての作品において、だれもが持っている薄っぺらな「正義感」を、粉みじんに砕いてしまいます。先に述べた「やり切れない気分」は、そこに由来するものなのです。

 

さねとう作品の魅力は、その「こわさ」にあります。

私がそうであるように、教室の子どもたちもまた、薄っぺらな「正義」を纏って生きています。自分の身は安全なところに置いた上で、あたかも第三者のごとくに「悪」を非難します。

私は、「ばんざいじっさま」を授業で2回使いました。それは文学の授業であると同時に、生活の主人公である子どもがその生活に対する責任を自覚していく営みでもありました。手もとに残っている授業通信を読み返すと、その深さに30年以上経った今でも身震いがします。

 

さねとうさんの作品は、いくつも授業で使わせていただきました。

「かっぱのめだま」

「おこんじょうるり」

「くびなしほていどん」

「ふたりのデェデラ坊」

以上4作品は、『地べたっこさま』に収録されています。

『地べたっこさま』(理論社刊)は絶版になっていますが、電子書籍 (講談社文庫 Kindle版 550円)で入手できます。是非出合ってほしい1冊です。

 

 

8月15日が近づくと、きまってさねとうさんの言葉を思い起こします。

 

民衆が歴史の主人公であるなら責任を負うのはまた民衆ではないのか