教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

教員の「心の病」が深刻だ(その2)

「心の病で休職の公立校教員が過去最多 背景に長時間労働など」

毎日新聞」の見出しです。

 

「心の病」の背景に、「長時間労働」の問題があります。

 

田原総一朗さんは、教員の過酷な労働環境が子どもの教育に悪いを与え、ひいては教員不足につながっている現状に警鐘を鳴らしています。

田原総一朗氏 教員不足に危機感「経済、安全保障と同じようになんとかしなくては」
東スポWEB
12/27(火) 15:26配信


 ジャーナリストの田原総一朗氏(88)が27日、ツイッターを更新。教員の過酷な労働環境に言及した。

 日本教職員組合が今年秋にインターネットで行った調査によると公立の小中学校の教員の実質的な労働時間は平均11時間超。4割以上が休憩時間0分と答えたという。こうした労働環境が子どもの教育に悪いを与え、ひいては教員不足につながっている。

 田原氏はこの流れを報じるNHKの記事を引用した上で「教職員が激務でなり手が不足している。経済、安全保障と同じように教育の問題もなんとかしなくてはならない」と、教員不足が日本の将来を左右する重大な問題であることを訴えた。

 

教員の過酷な労働環境については、文科省が全国の教育委員会に行った学校の働き方改革を巡る取り組み状況の調査を報じた「教育新聞」の記事を紹介します。

教員の時間外勤務削減に「壁」 小中学校は小幅改善、文科省調査
教育新聞
12/26(月) 15:00配信

 


 教職員の処遇や勤務制度の見直しに向けた検討が政府や与党で始まる中、教職員の時間外勤務は改善傾向が続いているものの、改善幅が小さくなってきていることが12月23日、文科省が全国の教育委員会に行った学校の働き方改革を巡る取り組み状況の調査で明らかになった。時間外勤務が「月45時間以下」となっている割合を4月から7月までの平均でみると、小学校は2019年の51.5%から22年の63.2%に、中学校は同じく36.1%から46.3%に、高校は同じく53.5%から63.4%に改善した。しかし21年と22年を比べると、改善幅は小学校で1.9ポイント、中学校で1.8ポイントと小幅の改善にとどまり、高校ではマイナス0.4ポイントと悪化した。学校行事や部活動などによって教職員の時間外勤務がなかなか減らないという、業務改善の「壁」もうかがえる調査結果となった。過労死ラインの目安とされる月80時間を超える時間外勤務を行っている教職員は、22年4~7月の平均で小学校4.4%、中学校13.7%、高校10.3%となっており、依然として多いことも確認された。

  調査では、在校等時間から所定の勤務時間を差し引いた教職員の時間外勤務について、都道府県・政令市と市町村の全国全ての教育委員会(計1794)に聞いた。

 調査結果によると、時間外勤務の上限と定められている「月45時間以下」の割合を4月から7月までの平均でみると、小学校では19年が51.5%、20年が69.9%、21年が61.3%、22年が63.2%で、19年と22年を比べると11.7%増加した。中学校では36.1%、62.9%、44.5%、46.3%で、19年と22年の比較では10.2%増加した。高校では53.5%、77.9%、63.8%、63.4%で、19年と22年を比べると9.9%増加した。20年には新型コロナウイルス感染症による長期休校や分散登校などがあったため比較しにくいが、教職員の時間外勤務は過去4年間で改善傾向が続いていることが分かる=グラフ参照。

 しかし21年から22年の改善幅をみると、小学校で1.9ポイント、中学校で1.8ポイントと小幅の改善にとどまり、高校ではマイナス0.4ポイントと悪化した。

 この背景について、文科省では「教委にヒアリングしたところ、21年の5月と6月にはコロナ禍の影響で運動会や修学旅行などの学校行事や部活動の大会などが行えないことがあったが、22年の5月と6月にはそれらの多くを行うことができ、このため、教員の時間外勤務が増えた、とのことだった。ただ、4月と7月は小学校、中学校、高校ともに『月45時間以下』の割合が増えており、教職員の時間外勤務は引き続き改善傾向にあると理解している」(初等中等教育局財務課)と説明している。

 過労死ラインの目安とされる月80時間を超える時間外勤務を行っている教職員について、19年と22年を比べると、小学校は10.7%から4.4%に、中学校は25.4%から13.7%に、高校は18.9%から10.3%に減った。中学校で7.3人に1人の教員が月80時間を超える時間外勤務を行っている現状について、文科省では「月80時間を超える時間外勤務は、教員の健康管理を考えても、なくしていかなければいけない。都道府県の教委からは、学校や市町村教委によって取り組みに差があるとの指摘が出ている。やれることをやっていない学校や市町村に取り組みを促していきたい」(同)としている。

 勤務実態の把握方法をみると、ICカードやタイムカードなど客観的な方法で把握している割合は、都道府県と政令市で100%、市区町村で93.3%だった。市区町村は昨年の85.9%から7.4ポイント改善しており、未実施の市区町村でも23年度以降に開始予定だと回答した。適正な勤務実態の把握は法律で義務付けられており、働き方改革のスタート地点として全国で進んできている。

 学校と保護者の連絡手段のデジタル化については、都道府県93.6%、政令市90.0%、市区町村80.5%がすでに実施していることが分かった。市区町村では昨年度の調査で56.3%にとどまっており、大幅な改善となった。

 永岡桂子文科相は12月23日の閣議後会見で、今回の調査結果について、▽時間外勤務は18年度以降継続して改善傾向にあり、働き方改革の成果が一定程度出ているものの、依然として長時間勤務の教職員も多い▽客観的な方法で勤務実態を把握している自治体は全体の9割を超えており、さまざまな取り組みの前提となる適正な現状把握が全国的に進んでいること▽連絡手段のデジタル化をはじめとする校務の効率化など、教員の業務の見直しは全体としては進んでいるものの、一層促進する必要がある--と3つの見方を示した。

 その上で、「働き方改革の取り組みは着実に前進しているが、引き続き取り組みを加速していく必要があると考えている。国、学校、教育委員会が連携して、教師が教師でなければできないことに全力投球ができるような、そういう環境を整備するために、文科省が先頭に立って取り組んでまいりたい」と述べた。

 21年から22年にかけての改善幅が小幅になったことに見解を求められた永岡文科相は「22年度の時間外勤務の状況については、21年度に新型コロナウイルスの影響によって見送っていた学校行事などを22年度は実施したという影響もあると考えている。また、自治体間や学校間の取り組み状況の格差もある」と説明。対応策として、(1)小学校における35人学級の計画的な整備や高学年の教科担任制の推進に向けた教職員定数の改善(2)教員の業務支援員をはじめとする支援スタッフの充実(3)校務のデジタル化など学校DXの推進--を挙げ、「23年度予算案に必要な経費を計上することとしている」と述べた。

 教員の時間外勤務については、給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)に基づく「公立学校の教師の勤務時間の上限に関する指針」によって、「1カ月の時間外勤務は45時間以内」「1年間の時間外勤務は360時間以内」とする上限が定められている。指針では、教員の勤務時間について、自主的・自発的な勤務も含めた在校時間と、研修や児童生徒の引率など校外での勤務も合わせて「在校等時間」として把握することを定めた。この「在校等時間」から所定の勤務時間を差し引いた時間が教職員の時間外勤務とされている。

 

ここで注意したいのは、「時間外勤務」とは何を指すのかということです。

上の記事にあるように、「指針では、教員の勤務時間について、自主的・自発的な勤務も含めた在校時間と、研修や児童生徒の引率など校外での勤務も合わせて「在校等時間」として把握することを定めた。この「在校等時間」から所定の勤務時間を差し引いた時間が教職員の時間外勤務とされている。」と、「公立学校の教師の勤務時間の上限に関する指針」に定められています。その上限が1カ月45時間以内というわけです。

「在校等時間」-「勤務時間」=「時間外勤務」です。

つまり、「時間外勤務」とは学校にいる間に行った勤務時間外の業務を指します。

たとえば、5時に退勤して保育園に子どもを迎えに行き、帰宅後に持ち帰った子どもの日記に赤ペンを入れたとします。ーーこれは、「時間外勤務」には含まれません。

成績等の個人情報を含む業務は学校から持ち出さないことが原則ですが、日記等のノート処理、通信作成、教材研究、授業準備などは「持ち帰り残業」が常態化しています。

したがって、調査に表れる長時間労働というのは実態から何割か差し引いたものです。

 

常時50人以上が働いている職場には衛生委員会を設置することが義務づけられていますが、小学校でこの規模に該当することはまずありません。

公立学校の労働安全衛生管理体制の整備が遅れていると指摘されています。

率も問題ですが、実態はさらに問題です。

「安全衛生委員会」なるものがあったとしても、校舎や遊具の安全点検は行っても、教員の健康や働き方を点検する場になっている委員会がどれほど存在するでしょう。私は出会ったことがありません。

いずれにしても、長時間労働と「心の病」に有効な職場機能はないということです。

 

永岡文科相は……対応策として、(1)小学校における35人学級の計画的な整備や高学年の教科担任制の推進に向けた教職員定数の改善(2)教員の業務支援員をはじめとする支援スタッフの充実(3)校務のデジタル化など学校DXの推進--を挙げ、「23年度予算案に必要な経費を計上することとしている」と述べた。」ということです。この程度の施策では効果は限定的でしょうが…。

 

それにしても、と考えます。

長時間労働、多忙ということでいえば、民間にはもっと大変なところがいくらでもある。

そんな反論が聞こえてきそうです。

忙しさ比べをするつもりはありません。「民間にはもっと大変なところがいくらでもある」ことも事実だと思います。

では、教員の「心の病」が突出して多いのは何故(なにゆえ)でしょう?

 

きょうは何の日 12月31日

晦日

 

12月31日は大みそか

 

「日本文化いろは事典」より紹介します。

晦日
読み方:おおみそか
同義語:大晦〔おおつごもり〕

1年の最後の日を「大晦日〔おおみそか〕」または「大晦〔おおつごもり〕」とも呼びます。「晦日みそか〕」とは毎月の末日のことです。一方「晦〔つごもり〕」とは、"月が隠れる日"すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。"1年の最後の特別な末日"を表すため、末日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。

 意味・目的家族揃って新年を迎える
12月31日「大晦日」には1年の間に受けた罪や穢れ〔けがれ〕を祓うために、大祓い〔おおはらい〕が宮中や全国の神社で執り行われます。仏教色が強い夏のお盆に対して、正月の行事の1つである大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀る意味を強く感じます。
昔、1日は夜から始まり朝に続くと考えられていたため、大晦日は既に新しい年の始まりでした。そのため、この日に縁起物であるお頭〔かしら〕付の魚を用いた正式な食事やお雑煮などを家族揃って食べるなどします。これを「年越し」「年取り」といいます。年越しの夜は除夜〔じょや〕ともいいます。かつて、除夜は歳神様を迎えるため一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、シワが寄るなどの俗信がありました。

 起源・歴史古くから行われていた年越しの行事
晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。本来大晦日は歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
晦日の風物詩である年越し蕎麦〔としこしそば〕は江戸時代頃から食べられるようになりました。金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を使ったことから、年越し蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないと言われています。
また、江戸時代の町人は大晦日になると借金の返済に追われていました。これは、年内に借金を返済し、新しい気持ちで新年を迎えたいという人が多かったからです。現代でもそれにならってか、決算を3月ではなく12月にする企業が多いようです。

 行事108つの煩悩を祓う除夜の鐘
晦日の夜ふけに、全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」といいます。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味しています。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと言うわけです。また、108回のうち最後の1回は年が明けてから突きます。これは、今年1年煩悩に惑わされないように、という意味が込められているそうです。

 

 

みそかは12月31日ではなかったというおはなし。

以下、「Wikipedia」より。

晦日(おおみそか)は、1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大晦(おおつごもり)ともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。

名称
旧暦では毎月の最終日を晦日みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。
晦日を大つごもりともいった。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。

 

 

教員の「心の病」が深刻だ

2021年度に「心の病」で1カ月以上休んだ公立学校の教員について、文部科学省が調査結果を発表しました。

 

新聞報道を紹介します。

 

心の病で休職の公立校教員、最多5897人 若い世代ほど高い割合
朝日新聞デジタル
12/26(月) 17:00配信


 昨年度に「心の病」で休職した公立の小中高校などの教職員は前年度比694人増の5897人で、過去最多を更新したことが26日、文部科学省の調査でわかった。5千人を上回るのは5年連続。1カ月以上病気休暇を取っている人を合わせると1万944人に上り、初めて1万人を超えた。教員の多忙さの抜本的な改善が進まないなか、若手ほど心の病による休職者・休暇取得者の比率が高い実態も浮かんだ。

【グラフ】20代の休職者は50代の2倍超。年代別で大きな差がある休職者の割合と、直近10年の休職した教職員数の推移

 都道府県や政令指定市教育委員会を対象に調べた。精神疾患による休職者と、1カ月以上病気休暇を取った人を合わせた数は、前年度から1448人増えて1万944人。うち20代は2794人で、この年代の在職者に占める割合は1・87%と年代別で最多だった。30代は2859人で1・36%、40代は2437人で1・27%。50代以上(2854人、0・92%)と比べると、若い世代で目立つ。

 文科省の担当者は「業務量が一部に偏ったり、コロナ禍で教職員間のコミュニケーションが取りづらくなったりしている」と指摘。また、若手の相談相手になってきた40代の中堅が、採用数が少なかったため層が薄く、悩みを抱える20~30代を支えるのが難しくなっている、と説明する。「管理職が目配りしたり、教職員がストレスチェックなどにより自身で心身の状況を把握したりする取り組みを促したい」と話す。

 

 

 

心の病で休職の公立校教員が過去最多 背景に長時間労働など
毎日新聞
12/26(月) 18:15配信


 2021年度に「心の病」で1カ月以上休んだ公立学校の教員が前年度比15・2%増の1万944人となり、初めて1万人を超えたことが26日、文部科学省の人事行政状況調査で明らかになった。全教員に占める割合も1・19%で過去最高だった。文科省は慢性化する学校現場の長時間労働や、若手教員への負担が増加の背景にあるとみている。

 調査対象は、全国の公立小中学校、高校、特別支援学校などの全教員約91万9900人。「うつ病」など精神疾患が原因で1カ月以上の長期療養をした教員は、前年度より1448人増えた。16年度に「1カ月以上の長期療養者」を調べ始めてから増加傾向にある。

 1万944人のうち、「病気休暇」を取れる上限の原則90日を超え、休職したのは5897人(前年度比694人増)で過去最多を記録。全教員に占める割合も0・64%と最も高かった。07年度以降、精神疾患の休職者は5000人前後で高止まりを続けていた。

 文科省が16年度に実施した調査では、公立小学校で約3割、公立中学校で約6割の教員が「過労死ライン」とされる月80時間以上の残業をしていた。長時間労働の是正は途上にあり、同省は、一部の教員に業務の負担が集中し、「心の病」による休職などにつながった可能性があるとする。

 調査では、参考値として精神疾患で病気休暇を取ったり、休職したりした教員の年代ごとの割合を示しており、20代が1・87%、30代が1・36%、40代が1・27%、50代以上が0・92%で、若いほど高くなっている。全年代で前年度より増加しており、20代の増え幅は0・43ポイントで最も大きい。

 学校では、第2次ベビーブームの影響で1980年代に大量採用された公立校教員が大量退職の時期を迎えている。一方、00年前後に少子化の進行を見据えて採用数を抑えたため、若い世代の教員を指導する30代半ばから40代半ばの中堅教員が不足している。

 文科省は「特に20~30代で休職者が増える傾向が強い。中堅教員が少ない自治体が多いために若手が気軽に相談できる相手が少なく、学校内で若手へのサポートも薄いことが考えられる。働き方改革を進めて教員の負担を減らし、相談しやすい環境を整備したい」としている。【深津誠】

 

「心の病」休職の教員、約2割が退職に 多忙で産業医面談拒否も
毎日新聞
12/26(月) 18:18配信


 2021年度に「心の病」で1カ月以上休んだ公立学校の教員は、前年度比15・2%増の1万944人と初めて1万人を超えた。文科省は、「心の病」が原因で休職した公立校教員5897人が、22年4月時点で職場復帰したかどうかも調べた。41・9%(2473人)が復職した一方で、引き続き休職している教員は38・7%(2283人)、19・3%(1141人)が退職に至っていた。

【「心の病」休んだ教員の人数 右肩上がり】

 「職場に復帰しても、再び精神疾患になって休職を繰り返し、最終的に退職するケースが少なくない」

 ある政令教育委員会の人事担当者は打ち明ける。この市では、復帰後2年間は学期ごとに教委の担当者らが学校を訪ね、個々の状況を把握している。ただ、ここ数年で休職者は約1・7倍に増え、理由も「仕事」「家庭事情」「保護者対応」など多岐にわたるという。

 この担当者は「突き詰めると、教員が足りないことが原因ではないか」とみる。学校では、年度初めに教員が定数を満たすよう配置されても、年度途中に産休や育休などで教員が欠けると補充が難しい。1人あたりの業務量が増加し、心に不調を覚えても、言い出せずに悪化することもある。

 また、学校ごとに教員の定数は決まっており、復職後は「即戦力で仕事をしなければならず、簡単な仕事からというわけにもいかない。子どもや保護者とのコミュニケーションに悩む教員も多い」と打ち明ける。

 教育現場を支援するNPO法人「共育の杜」(広島市)と東京大の小川正人名誉教授(教育行政学)らは11~12月、約80の教委に精神疾患の教員への対応を調査。「復帰後、すぐに担任を受け持たねばならない」「忙しくて、産業医との面談を拒否するケースもある」など業務の多忙さと、管理職らのフォローが十分でないことがわかったという。

 共育の杜の藤川伸治理事長は「産業医が社員と頻繁に面談し、精神疾患が再発する予兆をつかみ、再び休職する割合を大きく減らした企業もある。復職前後のきめ細かいフォロー体制を作る必要がある」と指摘する。文科省は来年度、教員の精神疾患による休職の原因を詳しく分析し、教員が悩みを相談しやすい体制づくりの研究も進めるとしている。【深津誠】

 

まず、事実を正確に把握する必要があります。

 

心の病で休職の公立校教員、最多5897人

マスコミの報道では、休職者の多さが前面に出ています。

それはとても大きな問題なのですが、「休職」というのは「「病気休暇」を取れる上限の原則90日を超え」て休んでいるものを指します。その数が5897人で、「全教員に占める割合も0・64%」に達しているというわけです。

他の産業を含め、厚生労働省が「労働安全衛生調査(実態調査)」で公表しているのは1カ月以上の休業者数です。

平成27年度の資料を紹介します。

全産業における1カ月以上の休業者の占める割合は0.4%です。これ自体も問題ですが、ここでは「ものさし」として示します。

さて、「2021年度に「心の病」で1カ月以上休んだ公立学校の教員が前年度比15・2%増の1万944人」です。これは「全教員に占める割合も1・19%」で過去最高だったというのです。

全産業の0.4%に比して教員の1.19%は約3倍。学校という「事業所規模」からすれば4~6倍の多さです。突出した異常です。

 

文科省の担当者は……「管理職が目配りしたり、教職員がストレスチェックなどにより自身で心身の状況を把握したりする取り組みを促したい」と話す。(朝日新聞

文科省は「特に20~30代で休職者が増える傾向が強い。中堅教員が少ない自治体が多いために若手が気軽に相談できる相手が少なく、学校内で若手へのサポートも薄いことが考えられる。働き方改革を進めて教員の負担を減らし、相談しやすい環境を整備したい」としている。(毎日新聞

 

20代の1.87%(全産業の4.7倍)は大問題だけれど、50代以上の0.92%(全産業の3.1倍)だって大問題です。「学校内で若手へのサポートも薄い」ことが問題で、「管理職が目配り」して何とかしようという文科省の問題意識が最大の問題です。

これはもはや「文部科学省教育委員会-学校現場」という単線ルートだけでは解決できるとは考えられません。学校というもののあり方や教員に求めるものなど、社会全体で考えて合意形成しなければならないことが根っこにあるのではないでしょうか。(別の機会に言及したいと思います)

きょうは何の日 12月28日

身体検査の日

 

1888(明治21)年12月28日、文部省(現:文部科学省)がすべての学校に毎年4月に生徒の「活力検査」(身体検査)を実施するよう訓令しました。

 

「雑学ネタ帳」によると、

当初の「活力検査」の検査項目は、体長・体重・臀囲(でんい:尻のまわり)・胸囲・指極(しきょく:両手を水平に伸ばした時の長さ)・力量・握力・肺量であった。

その後、1897年(明治30年)に「活力検査」は全面的に改められ、「学生生徒身体検査規程」が公布された。これにより、体力検査的な項目は削除され、発育に関係のある身長・体重・胸囲などが残された。

 

1897年以降については「Medical Tribune」より引用します。

1897年に学生・生徒身体検査規程が公布され身体検査となり、4月と10月の年2回実施することになった。1958年の学校保健法制定・公布により学校では健康診断となったが、船舶免許の身体検査、海技士身体検査、パイロットの航空身体検査などは残っている。

 

学校保健安全法施行規則
(昭和三十三年六月十三日文部省令第十八号)
第六条 法第十三条第一項 の健康診断における検査の項目は、次のとおりとする。
一 身長、体重及び座高
二 栄養状態
三 脊柱及び胸郭の疾病及び異常の有無
四 視力及び聴力
五 眼の疾病及び異常の有無
六 耳鼻咽頭疾患及び皮膚疾患の有無
七 歯及び口腔の疾病及び異常の有無
結核の有無
九 心臓の疾病及び異常の有無
十 尿
十一 寄生虫卵の有無
十二 その他の疾病及び異常の有無


引き続き、「Medical Tribune」より。

学校保健安全法施行規則の一部改正が2016年4月に施行され、坐高の検査・寄生虫卵の有無の検査は必須項目から削除された。また、四肢の状態が必須項目として加わり、検査に際しては四肢の形態・発育、運動器の機能の状態に注意することになった。

 

学校保健安全法施行規則の一部改正等について(通知)

Ⅰ 改正の趣旨
近年における児童,生徒,学生及び幼児(以下「児童生徒等」という。)の健康上
の問題の変化,医療技術の進歩,地域における保健医療の状況の変化などを踏まえ,
児童生徒等の健康診断の検査項目等の見直しを行うとともに,職員の健康診断、就学
時健康診断の様式等について,最近における状況や予防接種法(昭和23年法律第68号)の改正を踏まえた結果を反映するため,改正を行うものであること。

Ⅱ 改正の概要
1 児童生徒等の健康診断
(1) 検査の項目並びに方法及び技術的基準(第6条及び第7条関係)
ア 座高の検査について,必須項目から削除すること。
寄生虫卵の有無の検査について,必須項目から削除すること。
ウ 「四肢の状態」を必須項目として加えるとともに,四肢の状態を検査する
際は,四肢の形態及び発育並びに運動器の機能の状態に注意することを規定
すること。

 


青空文庫」に「身体検査日」という詩が掲載されています。

身体検査日
倉橋潤一郎

その日
学校では不安なざわめきが感ぜられ
私はいくつかのあわれなささやきに耳をいためた

つと立ち寄り
じっとその子の瞳をみていると
うちしずみものかなしいうったえるような色を浮べて
じっとみかえす

お前もか!
お前もか!
私は
うったえる瞳の奥にひろがる貧しい生活を思い浮べ
黙って生きてゆかねばならない
曇った運命をかなしんだ

先生!
蓄膿病ってなおるでしょうか?
淋巴腺、アデノイド、扁桃腺、中耳炎
みんなきりつめた様子で私をみつめるのだ
四十人中三十名
ものかなしい瞳の色が 今日
どうしてぬぐわれよう

朗々としみるような声が
くすぐるようにうつろにかわり
一節よんでは、はなをすすり始め
一句よんではとぎれ始め
だんだんとしわがれてくる
「もういい 代って」
そう言ったが
がばとうつぶし すすりなきにくれる
級長とその子
教室にたちこめてくる冷たい冷たい
涙のちんもくよ
私はかきむしられる心にむちうって立ち上った
そうして
子供たちに病気をなおす方法をとききかした

かんたんな塩のうがい法と
もひとつ
貧乏をなくす方法について
(『詩人』一九三六年十月号に石川究一郎名で発表 『倉橋潤一郎作品集』を底本)

時代は変わっても、いかにプライバシーに配慮しても、様々な思いをもつ子がいることを忘れてはなりません。

 

 

きょうは何の日 12月25日

クリスマス 

 

クリスマス(Christmas)は、イエス・キリストの降誕を記念する祭です。


「クリスマス(Christmas)」という英語は「キリスト(Christ)のミサ(Mass)」という意味に由来します。

 

「降誕祭」は「降誕(誕生)をお祝いする日」であり、いわゆる「誕生日」ではありません。イエス・キリストの誕生日は不明で、また12月25日を「誕生をお祝いする日」とした理由もつまびらかではありません。
Wikipedia」には次のような記述があります。

エスが誕生した月日は不明であるが、4世紀初頭の教会では12月25日と定めていた。これはローマ暦の冬至に相当する。春分の日でもある3月25日の受胎告知からちょうど9ヶ月後である。多くのキリスト教徒は、世界各国でおおよそ採用されている、グレゴリオ暦の12月25日に祝う。しかし、東方キリスト教会の一部では、クリスマスを旧ユリウス暦の12月25日に祝い、これは現在グレゴリオ暦の1月7日に相当する。キリスト教では、イエスの正確な誕生日を知ることよりも、神が人類の罪を償うために人の姿でこの世に現れたことを信じることが、クリスマスを祝う最大の目的であると考えられている。

 

日本でクリスマスのお祝いが行われるようになったのは、1874(明治7)年に原女学校で開かれたのが最初とされています。

講談社HPに掲載された堀井憲一郎さんの記事より紹介します。

明治最初のクリスマス
あらためて明治になってからの日本の〝降誕祭〟の模様を見ていく。

いくつかの書籍と、新聞記事でクリスマス世相を追っていきたい。

基本は東京の朝日新聞朝日新聞東京版)である。ただ、東京の朝日新聞が始まるのはわりと遅く明治21年(1888)からである。明治の前半は東京には朝日新聞がなかったのだ。それ以前は別の資料から拾っていく。

東京の異人居留地は、築地にあった。

このエリア内にキリスト教徒である異人たちが多数住まいをなし、また各国領事館や公館、それに教会やミッション系の学校などがあった。開国以来、江戸東京における別世界であり、異人文化が存在し、また受け入れる場所であった。

のち、銀座周辺にもキリスト教関係の建物や場所がいくつか開かれ、築地から銀座エリアが、日本のクリスマス先端地域となっていく。

日本人による明治以降の最初のクリスマスは、1874年(明治7年)、この築地居留地内にあった学校内で行われた、とされている。

東京の女子校御三家「桜蔭・雙葉・女子学院」のひとつ〝女子学院〟の発祥は、1870年(明治3)に築地居留地に建てられた〝A六番女学校〟にある。

1874年に原胤昭(はら・たねあき)らがそこで初めてのクリスマスを開いた。

この一件に関するタネ本はひとつである。

銀座の教文館出版から出ている『植村正久と其の時代』。昭和13年(1938)刊行(1976年復刻)の本である。その第二巻の十一章「我國に於ける最初のクリスマス」とそのものずばりのタイトルで書かれている。昭和初年にクリスマスは空前のブームを見せるので、その時代を反映してルーツを探って書かれたものだとおもわれる。

原胤昭本人から聞いた談話として記されている。

原は江戸育ち、もと幕臣、この1874年にキリスト教に入信した。当時数えて22歳の若者である。入信の感謝のしるしに、その年のクリスマスを盛んにやりたい、と祝会を企画した。

1874年の築地で、日本人がクリスマスを開いたのはたしかなようだが、これが日本人による明治期の初めてのクリスマスかどうかは、きちんと検証されているわけではない。

1873年やそれ以前の神戸、大阪、横浜、長崎、函館などで、どういう降誕祭が開かれていたかの精密な記録がなく、またその調査が行われていないため、反証できないだけである。厳密には、現在のところ書類で確認できる明治期最初の日本人によるクリスマス、となる(煩雑なのでそうは記さないが)。

 

神田明神の祭礼のような気持ちで…
原胤昭が入信の記念に開いた1874年の築地のクリスマスは、すこし奇妙な日本ふうの祭りになっていた。

築地の学校でクリスマスが開かれると聞いたアメリカ公使館が、間違って変なことをやられてはと心配して、祝会の前日に4人の公使館員を送ってきて、会場の下検分をやった。

熱心というか、ヒマというか、信用されてないというか、これも不思議な光景である。

ただ、アメリカ公使館の懸念は的中した。天井から吊り下げたミカンで飾った十字架を見て、これはカトリックがやることだと注意され、撤去させられた。

原胤昭は江戸っ子なので、神田明神の祭礼のような気持ちでやった、と述懐している。

神田明神の祭礼のような気持ちで迎える降誕祭。ずいぶん日本的というか江戸的な感覚である。

大枚を投じ、大骨を折って作った十字架を撤去させられてしまい、原胤昭は、これでは寂しいから、造花を集めて綺麗に飾ろうとおもいついた。しかし祝会の前日である、すぐにたくさんの造花が手に入るものではない。

そこで「浅草の蔵前から仲見世にかけて何軒もあった花簪(はなかんざし)屋」へ、賃金が高くかかるのもおかまいなしに人力車で人をやって、大急ぎで花簪を買い集めた。それで会場を飾った。かなり日本的な空間ができあがったとおもう。

 

殿様姿のサンタクロース
クリスマスツリーも飾った。

ただ会が始まる前から一切を見せてはおもしろくないから、一同をあっと言わせるために、落し幕を設えようと考えた。しかしそんなものは、横浜くらいまで行かないと買えそうにもない。

そこで、原胤昭の家は旧幕時代は八丁堀の与力で、相当権勢を張っていた関係から、近所の新富座へ交渉して、芝居の落し幕を借りることになった。賑やかなことが好きな座付きの若い者がわいわいと騒ぎながら、提灯をつけて手伝いにやってくるという騒ぎになった。

クリスマスを新富座の若い者が手伝っている、というところがおもしろい。彼らのなかにキリスト教徒がいるとはおもえない。お祭りだから、という気分が横溢としていたのだろう。

また、サンタクロースは純日本風の趣向でやろうということになった。

趣向、というところも江戸文化らしい。

裃をつけ、大刀小刀を差し、大森カツラをかぶり、殿様風の身拵えに扮装したサンタクロースを用意した。おもわず「何ですかそれは」と言いたくなるスタイルである。

当夜は、暗誦、対話、唱歌を塾の女生徒(おそらくA六番女学校の生徒)がやってくれ、中村正直(敬宇)ら大勢の人が集まりとても盛会であった、とのことである。

そういうクリスマスであった。

近代日本初とされるこのクリスマスは、ずいぶんと日本風である。アメリカ公使館も心配するはずだ。なにしろ殿様姿のサンタクロースなのだから。

クリスマスを日本に馴染ませようという意図があり、またクリスマスはそれぐらいやっても大丈夫というたかのくくりようが見られる。神田明神のような、というコメントもまた、日本の祭祀の土俗的部分を取り入れようとしているようで、とても興味深い。

キリスト教徒だけの集会のはずなのに、すでに日本土俗化している部分がいくつもある。いろんな示唆に満ちた〝明治最初のクリスマス〟である。

 

 

 

きょうは何の日 12月22日

労働組合法制定記念日

 

1945(昭和20)年12月22日、「労働組合法」が公布されました。
労働組合法」は、労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権等の保障について定めた法律で、「労働基準法」「労働関係調整法」とともに「労働三法」と呼ばれています。

 

労働組合法が制定されるまでの歴史について、厚生労働省のHPに「日本の労働組合の成立ち」という文献が掲載されています。

日本の労働組合の成立ち 


1.明治 
明治以前から、鉱山などでは、労働条件や低賃金に対する闘争があり、明治 11 年の横須賀造船所の争議、明治 19 年の甲府の雨宮製糸場のストライキをはじめ、多くの労働争議が記録されている。しかし、労働者はまだ労働組合を作るまでにはいたっていなかった。

我が国ではじめて労働組合を結成したのは、活版印刷職工たちだった。明治 17 年、22年には、東京印刷会社において、活版工の労働組合をつくる運動があったが、活版工からの賛同を得られず、失敗した。また、明治 23 年には、同志会という団体を起こし、初めて活版工の組織に成功したが、まもなく解散にいたった。
その他の労働組合運動は、明治 20 年、鉄工の間から行った。多くの弟子を養う親方職人が運動を始め、鉄工懇親会が開かれたが、組織化は失敗した。また、明治 22 年、熟練鉄工の有志十数人が発起人となり、同盟進工組が結成されたが、その後すぐ解散してしまった。

明治 27~28年の日清戦争の時期を通じて、日本もようやく資本主義の基盤が確立し、労働者が団結する気運もにわかに強まった。
明治 30 年 7 月、労働組合期成会の結成によって、日本の労働組合運動の幕が切って落とれた。期成会の結成は、明治 20 年代にアメリカに出稼ぎに行っていた高野房太郎、城常太郎、沢田半之助ら数十人の日本人による労働組合運動の呼びかけが契機となっている。
彼らは、アメリカにおいて弾圧に立ち向かって活動を続ける鉄道・鉱山労働者の労働組合や、イギリス・ドイツの労働組合運動の発展を見聞きし、日本に帰国後、労働組合結成の運動を展開した。運動は多くの進歩的学者、経営者、政治家、宗教家の支援を集め、これらの労働組合の結成に至った。

期成会の特筆すべき運動の1つは、労働者保護法たる工場法実現のための運動だった。当時の工場労働者の大半は繊維産業が占めており、その大部分は女工であった。彼女らは低賃金で長時間の労働に従事し、その労働条件は务悪であり、生糸工場などでは、毎日の労働時間は13~14時間を下回ることはなく、17~18時間に達した。政府は労働者とくに婦人・幼少年労働者を保護する法律を制定するため、工場法案要領を発表した。ところが、紡績業を中心とする産業界は、強くこれに反対し、期成会の必死の工場法期成運動も、ついに実らなかった。その後、工場法は、明治 44 年にようやく成立し、大正 5 年から実施されたが、まだまだ丌完全なものであった。

また、期成会は、労働者を導き、自らを母体としながら、次々に労働組合を生み出していった。その代表的なものは、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合の3つである。
期成会会員の9割は鉄工だったので、まず最初に鉄工組合が結成された。当初の鉄工組合には、東京砲兵工場・砲具製造所を筆頭に、横浜ではドック会社を中心に支部を結成したほか、甲武鉄道、新橋鉄道局、通信省旋工場、東京紡績場、日本鉄道大宮工場その他3~4の工場の鉄工が組合員になった。鉄工組合は、結成後、驚くべき勢いで発展していった。
交戦的労働組合の標本といわれた日鉄矯正会は、当時、民営企業であった日本鉄道会社の火夫、機関士が、待遇改善のストライキを通じて生まれたものである。この労働組合は、従業員の中の火夫、機関士、常務雇用者全員約 1 千人をもって組織し、「会員たらざるものはともに業につかざること」として、今でいうクローズド・ショップ制を確立した。
つぎに調和的労働組合の標本といわれた、活版工組合が発足した。活版工組合の施行細則には「本組合員を雇用する工場の労働時間を1日10時間とし、30分間の休憩時間を受くるものとす」とあり、普通 11~12 時間の労働時間だった当時にあって、資本家と協議して労働条件の改善を勝ちとっていた。その後、横浜、京都、名古屋、大阪、奈良と支部ができ、2 千余名の会員を組織することに成功した。

明治31~32年は、労働組合運動の最初の開花期である。横浜市西洋家具指物職同盟会、神戸の清国労働者非雑居期成同盟会、東京馬車鉄道会社馭者車掌同盟期成会、洋服職工組合、靴工クラブ、東京船大工職組合、木挽組合、石工・左官たちの組合などの労働組織がつくられていった。横浜市西洋家具指物職同盟会は、規約に「雇主にして無鑑札の職工を使用することあるときは、わが会員は何時を問わずその職に従事せざること」等が規定されていた。
また、神戸の清国労働者非雑居期成同盟会は、中国人の居留地外居住を絶対に禁止し、同業者の就業を保護しようというもので、会員数は 3 万人にのぼった。

しかし、新たに発足した労働組合運動の第一義的な狙いは労働者の社会的な地位の向上であり、労働者の生活改善や労働者保護法の制定、普通選挙制度の実施などを要求していたにすぎなかった。決して資本主義の基礎を脅かそうとするものではなかったが、この最初の労働組合運動は、明治 33 年に治安警察法が施行されることで壊滅させられてしまった。労働運動は、大衆の運動から一部の急進革命家の直接行動に変化し、やがて明治 43 年の大逆事件によって崩壊してしまう。


2.大正 
大正時代においても改良主義や生活改善運動で出発した労働運動が、当局の弾圧によって急進化し、やがて弾圧のもとで分裂し壊滅するというサイクルをくりかえすことになる。大正元年 8 月に鈴木文治を中心に、15 人の同志によって友愛会が創設され、大正時代の労働組合運動が辛うじて再建された。友愛会はその綱領において、親睦・相愛扶助、識見開発・徳性涵養・技術進歩、地位向上などを掲げ、きわめて労資協調主義的であった。友愛会の運動は当時まだ地位の低かった労働者の大歓迎をうけ、大正 3 年から始まった第一次世界大戦によってにわかにその数を増加した賃金労働者によって支持された。 

当初は穏健的だった友愛会は、戦争中の物価高騰や米騒動吉野作造の「民本主義」、ロシア革命などの影響を受けて、労資協調路線を捨て、階級闘争をスローガンとするようになっていった。友愛会は大正 8 年には大日本労働総同盟友愛会と改称し、大正 10 年には日本労働総同盟へと、名実ともに労働組合への道を歩むことになった。第一次世界大戦直後の恐慌による失業者の増大、賃下げなどは労働組合運動のなかに急進主義を台頭させ、急進主義は当時の労働者を強く惹きつけた。また、大正9年には、日本で初めてメーデーと銘打った屋外集会が開かれた。一方、政府は普通選挙制度を実施すると同時に治安維持法を施行していっそうの弾圧政策を展開し、労働組合運動も現実主義への方向転換を宣言したが、統一へと歩むことは容易にはできなかった。

大正 14 年に日本労働総同盟は分裂し、日本労働組合評議会が創立された。分裂は、一層、左派を地下運動的な急進主義に押しやり、右派を労資協調主義へと向かわせていった。日本労働総同盟の分裂は、大阪連合会所属の左派組合の除名など第二、第三の分裂を引き起こし、労働組合運動陣営を分解させてしまった。


3.昭和 
昭和に入ると賃金労働者がより増加し、労働組合運動は外形的には発展したように見えたが、大正時代からの左派と右派の相互丌信は解消されず、分裂は固定的なものとなった。左派系統の労働組合運動は、昭和 3 年の三・一五事件、昭和 4 年の四・一六事件等によって著しく弱体化し、右派が残った日本総同盟も産業報国運動により昭和 15 年に活動を停止せねばならなかった。

昭和 6 年の満州事変の勃発を契機とする軍国主義全体主義の台頭は、労働運動の存在を根こそぎゆるがすことになった。労働組合運動は、さらに分解を深めて、その一部は国家社会主義へ、さらに日本主義へと転向し、戦争協力をうたうことなしには労働組合の合法的存在さえ危うくなったかにみえた。つづいて昭和 12 年の日華事変を境とする戦時体制の強化は、戦争協力の立場をとる労働組合に対してさえ、自主的組織を奪い去り、官制の産業報国運動のなかに追い込んでいった。昭和 13 年に軍部と官僚との直接指導のもとに始まった産業報国運動は、労資一体・事業一家・産業報国のスローガンにより、労働組合の解体を要求し、昭和 15 年 8 月には、労働組合はすべて自発的に解散させられた。

一方、大正末期から昭和初期にかけての丌況期における大企業を中心に、新しい、そして日本に固有な、労使関係の第一歩が踏み出された。すなわち、それ以前の、移動の激しい、高賃金の、職人的熟練工に代わって、年齢の若い、新規学校卒業生を企業ごとに、卒業と同時に採用しはじめ、中途採用を排し、工場事業場の内部で技能養成をおこない、一定期間の後、技能優秀・身体強健等の若者だけを本雇(常用工・本工)として採用し、いったん採用の後は、丌特定の長期間その工場又はその企業の従業員として、定年のルール年齢が到来するまで、他に移動することなく、そこで働き続けさせるような労務政策がとられた。

したがって、雇用条件や地位の上位は、もっぱら勤務年数の長さや年功がものをいうことになり、生涯雇用・終身雇用と年功賃金と地位の役付化とが保証されることになる。労働市場は個々の企業のなかに縦の形でせまく形成され、労働者の意識のなかには、企業意識や従業員意識が強くなっていった。


4.戦後 
日本は、ようやく 15 年の戦時体制に終止符を打ち、平和がおとずれたが、敗戦の結果、連合国軍の占領下におかれ、情勢は大きく転換した。昭和 20 年には、産業報国会が解散され、労働組合法が制定され、労働者に団結権、団体交渉権、ストライキ権が保障された。昭和21年には労働関係調整法が、昭和 22 年には労働基準法が制定され、労働省が設置されたこのような情勢を背景に、労働者は、敗戦直後から生活を守るための自然発生的な闘争にたちあがり、その過程で労働組合の再組織に乗り出していった。

労働組合の結成は、破竹の勢いで進んだ。昭和 21 年 5 月 1 日には、昭和 10 年を最後に弾圧のため中止を余儀なくされていたメーデーが復活し、皇居前広場に 50 万人の大衆を集め、敗戦後 1 年目の昭和 21 年 8 月末には 13,622 の労働組合が組織され、3,936,815人がそこに加入していた。

また、戦後の労働組合の躍進にとって見落とせないのは、占領軍の占領政策だった。占領政策の第一の目標は、日本の非軍事化・非軍国主義化におかれ、占領軍は、日本の軍国主義を復活させないためには、民主的団体として労働組合におおいに期待した。
占領軍は、日本政府に労働組合の保護・育成を命ずるとともに、アメリカ本国から AFL(アリカ労働総同盟)や CIO(アメリ産業別労働組合会議)の指導者を呼び、労働組合の結成を支援させ、もしこれに妨害を加えるような経営者があれば厳重に警告した。このような占領軍の方針により、労働者は、積極的に労働組合に参加したばかりでなく、経営者は、労働組合がない場合には、結成をかえって援助した。

戦後の労働組合は、各会社ごと、各企業ごとにつくられた企業別組合を特徴とし、大企業の場合も、その傘下の事業所ごとに組合がつくられ、これらの組合が企業全体としての連合体、いわゆる企業連・企連をつくっている。日本で企業別組合が支配的な傾向なのは、一般資本主義国の労働組合の多くが、横断的な産業別または職業別組合であるのと大きな相違である。

日本の企業別組合の特徴は、労働者が、他の諸国のように工場から工場へ横に移動することなく、一度就職したら、その会社の従業員として、年功賃金と退職手当を目的に、企業内の福利施設を誇りとして終身雇用されている、いわば縦の労使関係からきている。このような終身雇用制度は、大正末期の大企業からはじまって、戦争中の労務統制によって強化され、敗戦後まで持ちこされ、企業別組合の基礎がつくられた。
企業別組合では、組合員は、まず企業の従業員であり、会社が倒産しないこと、そこから解雇されないこと、また年功賃金のベース・アップが最大の関心事であり、要求である。企業別組合は、多くの場合、工員、職員の別なく、そこで働く全従業員が加入する全員組織であるが、これはまたその企業の従業員以外は加入させないことをも意味している。

なお、戦後の労働組合は、このような企業ごとの縦断組合であるが、これらの組合が全国的に結合することを妨げるものではなかった。昭和 21 年 8 月には、早くも日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業労働組合会議(産別会議)の 2 つの全国的労働組合が正式に発足した。

日本の特殊な労使関係は、戦前に、大企業を中心として形成され、戦時の何年間かをくぐり抜け、戦後に持ち込まれた。戦前においては、上記のような労使関係と労働組合はむすびつかず、むしろ終身雇用や従業員意識は、労働組合排斥のための企業側の政策として用いられさえしたのだが、戦後における労働運動の自由によって、上記のような戦前から引き継いだ日本に固有な労使関係の上に労働組合がつくられることになった。戦後の企業別組合・企業内組合が、ここにはじめて生み出されたのである。
            出典:日本労働組合物語(大河内一男、松尾洋 筑摩書房1965年8月)

 

労働組合の組織率が低下の一途を辿る現今、過去の歴史を学び、過去の歴史に学ぶことは意味のあることだと思います。

 

きょうは何の日 12月19日

日本初飛行の日

 

1910(明治43)年12月19日、陸軍軍人(工兵大尉)徳川好敏(とくがわ よしとし、1884~1963年)が日本初飛行に成功しました。
1903(明治36)年のライト兄弟による動力飛行の成功から、わずか7年後のことでした。

 

以下、「雑学ネタ帳」より紹介します。

1910年(明治43年)のこの日、東京・代々木錬兵場(現:代々木公園)で陸軍軍人(工兵大尉)徳川好敏(とくがわ よしとし、1884~1963年)が日本初飛行に成功した。

飛行機はフランス製のアンリ・ファルマン式複葉機で、飛行時間は4分・最高高度は70m・飛行距離は3000mであった。

実際には5日前の12月14日に、陸軍軍人・日野熊蔵(ひの くまぞう、1878~1946年)が飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告された。

 

アンリ・ファルマン式複葉機

アンリ・ファルマン式複葉機

 

この日12月19日は「公式の初飛行を目的とした記録会」として行われ、徳川、日野の順で飛び、共に成功した。これにより日本における動力機初飛行として公式に認められた。

この日は「日本初飛行の日」ともされる。ちなみに、徳川は、徳川家の血筋であり、徳川御三卿の一つ清水徳川家の第8代当主にあたる。日野は、発明家でもあり、当時は天才発明家などと報道されていた。

1974年(昭和49年)12月、東京・代々木公園に「日本初飛行の地」の碑が建立された。また、徳川と日野の胸像も並んで設置されている。2010年(平成22年)12月19日、日本における初飛行100周年を迎え、同公園では記念式典が開催された。

世界における動力初飛行は、日本初飛行の7年前の1903年明治36年)12月17日にライト兄弟により行われ、12月17日は「飛行機の日」となっている。その他、関連する記念日として10月25日の「民間航空記念日」や3月6日の「世界一周記念日」などがある。

 

日本初飛行の地(日本航空発始の碑)

代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本航空発始之地記念碑が立ち、日本初飛行の地だったことを表しています。

                       (「東京とりっぷ」より)

 

国立国会図書館「本の万華鏡」に、「ようこそ、空へ―日本人の初飛行から世界一周まで― 」という記事があります。該当部分を引用します。

日本人の初飛行
ライト兄弟の初飛行後、欧米各国では飛行機の研究開発が活発に行われ、目覚ましい発展を遂げており、日本でも飛行機の研究がスタートしました。1909(明治42)年7月30日には、陸海軍の共同で、飛行機や飛行船の研究開発を行うため、臨時軍用気球研究会が創設されました。会長は、陸軍少将(当時)の長岡外史で、東京大学教授の田中舘愛橘らが委員として選ばれました。
日本人による国内で最初の動力付き飛行機による飛行は、臨時軍用気球研究会の2名の委員によって成し遂げられたものです。また、日本初の飛行場の開場も軍によるものでした。

 

飛行界レコード成る
飛行界レコード成る

1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場において、陸軍軍人で臨時軍用気球研究会の委員の徳川好敏と日野熊蔵が、日本人による国内初の動力付き飛行機での飛行に成功したことを報じている新聞記事です。最初に、徳川が海外派遣先のフランスで購入したアンリ・ファルマン式飛行機で試験飛行を行いました。初飛行の記録は、最高高度70m、時速53kmで、飛行距離約3km、飛行時間4分でした。
同日の午後、日野も派遣先のドイツで購入したハンス・グラーデ式飛行機での試験飛行に成功しました。なお、日野は同年12月14日と同月16日にも試験飛行を行いましたが、すぐに着陸したという理由で正式の飛行とは認められませんでした。そのため、12月19日が航空100年の公式な起算点になっています。

 

日本航空事始
日本航空事始 / 航空同人会編 ; 徳川好敏著 東京 : 出版協同社, 1964 【687.21-To426n】

初飛行の快挙を成し遂げた両名は、1910(明治43)年4月から4か月間、飛行機の購入と操縦法の習得のため欧州に派遣されていました。
フランスに派遣された徳川は、アンリ・ファルマンの飛行学校に入学し、操縦法を学びました。学校と言っても、所有飛行機は2機で、教官も1人しかおらず、教官と練習生が同乗して行う飛行練習を10回程度行っただけで単独飛行に臨むという簡素なものだったようです。徳川は、本書で、最初の単独飛行の際の気持ちを「私はなんとなく拠りどころのない淋しさを空中で感じていた。話し相手のないひとり旅のような淋しさだ」と述懐しています。このような練習内容であったものの、徳川は無事に飛行機操縦者免許状を獲得して帰国し、快挙を成し遂げました。

 

雄飛 : 空の幕あけ所沢
雄飛 : 空の幕あけ所沢 / 所沢航空資料調査収集する会編 [所沢] : 須澤一男, 2005.4 【YQ5-H53】

911(明治44)年4月1日、所沢に日本初の飛行場が開場され、臨時軍用気球研究会・所沢試験場となりました。わずか4機の輸入飛行機からスタートした所沢飛行場でしたが、格納庫の増設や飛行場の拡張工事が行われるなど、飛行機開発の中心地としての整備が進められました。この資料は、日本帝国陸軍の公式写真として撮影された所沢飛行場や飛行機の記録写真を中心に、飛行機の構造図や所沢陸軍飛行学校に関する資料等もまとめられています。初期の飛行訓練で用いられている木製の骨組みで、操縦席やエンジンがむき出しのシンプルな構造の飛行機が、装備が充実して性能が向上し、流線型の胴体に包まれた近代的な機体に変わっていく様子が見られます。

 

NHKの2022年度後期連続テレビ小説「舞いあがれ!」は、パイロットを目指すヒロインを描いていますが、この作品には実在モデルはありません。
日本人初の女性パイロットは、兵頭精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 1980年4月23日)さん。日本人初飛行から12年後、1922年に飛行機操縦士免状を取得されています。
ちなみに、兵頭精さんは1976年前期連続テレビ小説雲のじゅうたん」のヒロインモデルの一人です。