教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「7時間目」の人権学習⑤ ~知っていますか?ハンセン病~

「教科外活動等」におこなった、いわば「7時間目」の人権学習の記録です。

 

今回は、2011年の「差別をなくす強調月間」時の学級通信です。学年は6年生です。

 

 

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※紹介する講演は、1999年6月11日におこなわれたものです。

 

                  人間回復をめざして
                                                       長島愛生園 石田雅男さん


 私は岡山県の長島愛生園から来ました。この病気はみなさんのおじいちゃんおばあちゃんの頃は「らい病」とよばれていました。この病気が、なぜ病気の中でこれほどまでに忌(い)み嫌われてすごく恐れられたかと言いますと、それはまず第一に「その病気になると体が、顔もくさって目もつぶれてしまう。鼻もとけてなくなってしまう。手足の指が曲がってしまいにはなくなっていく。しかもこれを治す薬がない。不治の病。しかもうつるんだ。」ということで、お医者さんも昔はお手上げ状態。そして、国の方もそういう病気にかかった人たちを治すことはできないから、また病気の症状としてとてもみにくいから、「きたない物」「こわい物」というかたちで片付けていかざるを得なかったのかもしれません。しかし片付けられる病気になった人はどんなにつらい思いをしただろうかということをみなさんがた、これからほんの短い時間ですけども、聞いて分かってもらいたいなということでしばらくお話をさせてもらいます。


 岡山の小さな島、周囲16キロの瀬戸内海の静かな景色のいいところの一つの島に療養所があって、長島愛生園といいますが、今現在約600人入っています。そのうちの一人が私です。私は62才。その人たちの平均年齢が73才を超えています。そして療養所に入っている人たちの療養所で過ごした年数は、平均が50年近くなっています。私は52年間その島の療養所にいました。現在もいるわけです。そこで始めに言いましたように、この病気がとてもこわいから、嫌われるから、みにくいからということで隔離(かくり)をしていこうという政策を国がとって、閉じ込めてしまおうと、そして死ぬまでそこから出さずにおこうということでその療養所がつくられたんです。これが隔離ということです。


 外に、一般みなさまがたのこうした所に出ていく、家族の元、ふるさとに帰るということは認めない、許さないということの法律がありました。それは今ハンセン病ですけども、その法律は「らい予防法」という法律です。この法律に基づいて、その病気になった人を国家の権力でもってその療養所に引っ張っていくわけです。まるで罪を犯した罪人を手錠をかけて引っ張っていくのに似たような扱いをしてもよろしいという法律があったわけね。そして療養所に入れたら、一歩も外には出してはいけないというのがその法律。その法律が結果的には間違っていた。


 今の時代からすると、この病気にはありがたいことに、いい薬が昭和の22年にできて、この病気にかかった人に日本で初めて試してみたら、これはいけるじゃないか、これはひょっとしたら治らない病気じゃなくて治る病気に向かっていくかもしれないということになりました。昭和の22年ですから約50年前ですね。50年前にその薬がアメリカから渡って来たんです。そして、その薬を飲むと、先程言った、顔にデキモノが出て来たのもすっとひいていくし、よくなっていくわけね。黒くなってきた皮膚が普通のきれいな皮膚に戻っていく兆(きざ)しが出て来た。治るんじゃないかということで専門のお医者さんたちが力をいれて、そしてその薬を飲み続けているうちにさらに医学が進歩して、現在はどうかと言いますと、現在は完全に治る病気になった。それはそのプロミンという薬の後にさらにすばらしい薬ができた。その薬を中心にして、私たちはいろいろな薬を混ぜて、多剤併用(たざいへいよう)というんだけど、多剤併用療法ということでこれをしますと、1カ月もあったらこの病気は治る。

                                  つづく

 

シリーズ・差別をなくす強調月間
  知っていますか?ハンセン病


                  人間回復をめざして②
                                                    長島愛生園 石田雅男さん


 ところがこの病気が治るとなった現在、悲しいことに大勢の病気にかかった人たちの国立の療養所が全国に13カ所あるんですが、その療養所に住んでいる人たちは非常に年齢が高い。もう72、3才にもなっている。そこで治っているけれども帰るところがない。ふるさとがあっても家族がいない。家族らしいのがいても、自分の親、兄弟がいない。家族が変わってしまっている。そこで帰ることもできない。そういう状態に現在は至っているわけね。


 さてそこで今日はこうしたすばらしい時間をいただいたわけですから、みなさんがたに先程言ったように、私も10才のときに、みなさんがたよりも小さいときにこの病気にかかりました。それは昭和21年で、第二次世界大戦で日本が負けて1年たった時。日本は荒れすさんで、食べる物もすべて不自由して、そういう厳しい時代。みんなサツマイモを食べたり、大根を食べたりというようなひもじい時代に私はこの病気になっています。今の岡山の療養所に入りました。そのときの食事はどんなものであったか。朝は真っ黒な麦のご飯。おかずはなし。塩がそうだね、今つけもんかなんか買ったときに銀紙に入ってる、そんなところにちょこっとだけ。これが朝の食事。昼はサツマイモ1個。夕食、同じくサツマイモ1個。あるいは夕食はサツマイモに代わって、黒いパンが1個。みそ汁とかそんなのはありません。周りが海ですから海水を利用して、大根の葉っぱをうめて、それがたまに出された。そんな食事だったわけ。


 そうしたひもじいときに私はまだ岡山の愛生園に入って間がないときだから、両親が大変心配してくれまして、私のところに面会に来てくれました。そのときの私は両親の面会を喜び、そして、両親と一緒に海岸の大きな岩場に座って、お母さんのもって来た包みをといてくれたら、まきずしがいっぱいあった。


 それに飛びついて食べようとしたときに私は自分の手にサツマイモをもっていました。お父さんとお母さんが「雅男、おまえそんなにいもがすきだったかなあ」と言ったのです。好きも嫌いもなかった。それは、なぜかというと夕食の分を家の方においているとだれかが取る。取ってしまうんです。力づくでも取ろうというような時代でしたから。今のいじめの問題なんかをテレビや新聞で見て、大変な時代だなあと思うんですけれども、私たちの時代は、むしろ堂々と、野生の世界のような、力のないものは白昼堂々と上の人にサツマイモやパンを取られてしまうというようなことでした。だから私は、親の面会と言ったときに真っ先にいもを持って行ったわけ。親がわたしの目の前で弁当を広げたときに、まきずしがいっぱいあるのにサツマイモを手放さずにいたものだから、不思議がったわけね。


 そこでそういうことを見た親が後で20年ほどたってからですが、私が30才近いころに、親の元に一時帰省ということで帰らしてもらったとき、父はもういなかったのですが、おふくろと向かい合ったときに当時の話がたまたま出たんです。そのときにおふくろが「おまえあのときにいもを持っていて、いもをなかなか手放そうとしなかった。よく聞くとあれはおまえたちのご飯がわりのいもだったということで、ああいうものを食べていることをお父さんは知って、それからおまえのところから帰って、『わしはもうご飯とかおかゆは食べるのをやめよう。今日は昼はジャガイモにしよう』とか、おかゆには大根入れるとかいもを入れるとかということをあえてして、『我が子があのような食事をしているのに自分たちはご飯もおかゆも食べられない。』そういうお父さんだったよ」ということを聞かされたときにジーンときましたね。うれしかった。特にうれしかった。なぜか。このように親孝行もできない人間であった。不幸にもこういう病気にかかってしまった。大きくなっても親に対する恩返しとか、親を助けてあげようとか、親を喜ばしてあげようとかいっさいできないままに、私は、30近くなって家に帰ったときに父はいなくて、その父が私の食事のことを我が身のことのように思って、ご飯も食べずおかゆも食べず、サツマイモだとかジャガイモだとかそういう混ぜ物のおかゆさんを食べていたという一つの親の愛というかそうしたことを私は知って、とてもうれしい気持ちと同時に残念でならなかった。


 それと最後にこの病気になって一番つらいのは我が肉体を痛めてくる、壊してくる病気そのもののこわさが一つあります。今一つのこわさというのは大勢の人々から、あの人はこの病気だからこわいぞ、近づくな、うつるかもしれないということで避けるだけじゃなしに、いっさい人間として友だちにもなってくれない。交わりもしてくれない。そういう関係におかれていくといったことが一番つらいことでした。


 一昨年私のいる島に一番近い漁村にある小学校高学年、つまりみなさんと同じ6年生の生徒さんたちが、私たちの病気についていろいろと一生懸命勉強されて、そして学級発表というのかそういう発表会を開いてくれました。そのときに私たちの方にも声をかけてくれたものだから、その当日楽しみにして学校に行きました。保護者のみなさんがたもたくさんおられた。そうすると生徒さんたちがそれぞれ担当されたことを発表していきました。その中で6人の生徒さんがハンセン病についてということで発表してくれました。その発表に至るまでは、1週間以上かけて私たちの愛生園に足しげく通われて勉強された。その成果を発表するということで楽しみにして行きました。勉強されたことを細かくみんなに発表されたんだけど最後に代表の方がいわれた言葉が一番印象的でした。それは、地元の港町の小さな小学校なんだけども、目の前に大きな島が見える。それが長島なんですね。この長島に橋が架かった。これは10年前に橋が架かったんです。そして3年前に「らい予防法」とうい国の作った法律が間違いで、もうこういう法律はなくした方がいいということを国も認めた。
                                                                            つづく

 

シリーズ・差別をなくす強調月間
  知っていますか?ハンセン病


                  人間回復をめざして③
                                                    長島愛生園 石田雅男さん


 そして廃止になったという時でした。3年前に学校に行ったときに子どもさんがハンセン病とはどういう病気で、今まで自分たちは親からどのように聞かされていたか。自分たちはどのように島の人たちを見てきたのかということを正直に発表してくれました。そしてまとめたのがどういうまとめかたをされたかというと、目の前に島があって、そこにはハンセン病といわれる方たちが大勢おられる。そして何がなんだかわからないけれどもみんなすごく嫌ってます。なぜ嫌うのか。私たちには分かりません。そこでこの度私たちは勉強しました。分かったことは、なんらこわい、また嫌う病気ではないということで、まとめをどうまとめたか。一言だけ、知らなかったということが罪を犯していました。こう言われた。ドキッとするほどすごいまとめかただなあと私は思いました。知らないことが知らず知らず罪を犯してる。つまり偏見と差別をわけもなく周囲がするから自分も同じようにする側に回って、偏見、差別をしている。知らないままにやってきた。知らないのは罪だというわけです。たまたま担当の先生が「石田さんちょっと15分ほどお話を聞かせてくれませんか。」ということで、それをうけて私は感激して15分間話をさしてもらいました。お礼も言いました。


 時代というのは不思議なもので、悪い時代ばっかりでもなくまたいい時代ばっかり続くんでもないんです。周期的に回ってくるのが、たまたま私たち愛生園の療養所がができましたのが今から70年前です。来年はしたがって70周年という記念の年に当たるんです。70年の療養所の中で地元の人たちが冷たいことばっかりをしてきたのかというとそうでもない。人間の、すばらしくいいところだなあと思うのは、島の人たち、つまり病気になっている、らい患者の人たちが、外にも出られなくてかわいそうだから、学芸会をやったらそれをそっくり療養所の中でみんなに見てもらおうという時代があったんです。非常に国全体がすさんで、らい病というのはみにくい一番おそれられる病気、一番きたない存在にされていました。このらい患者を慰問しよう、慰めてあげよう、そういう気持ちが地元から上がったんです。そういう年もあったんです。


 ところが時代がどんどんひどくなってくるにしたがって悲しいことにそういう気持ちが今度は薄れてしまって、橋をかけようとしたときに、この橋は邑久長島大橋といって17年間運動して10年前にやっと橋がかけられた。これが人間回復の橋ということで私たちの運動の一つの成果、勲章みたいなもので、誇りにしているんだけども、その橋をかけるときに地元の人たちの協力が必要だということになって、地元の漁師さん、おじいちゃんおばあちゃん、そういう人たちにマスコミのテレビ局がマイクを向けた。「あそこに橋をかけようとされていますがどうですか。」と言ったら、おばあちゃんどう答えたと思います?「あんなきたないところに橋をかけるなんて、みんな治って、橋をかけても心配ないのだったら帰ってもらったらいいじゃないか。国元へ帰ったらいいじゃないか。きたないところに橋をかけるのには反対だ。」どう?この病気になったらそういう言葉が一番聞かれる。地元の島の海岸の小さな漁村のおばあちゃんがそう言ったの。しかもマスコミのカメラの前で。これ10年前の話ね。


 120年前にハンセンというノルウェーのお医者さんがらい菌を発見された。じゃなぜ「らい」と言わずに「ハンセン」となったのか。それは「らい」というのは、ぼくがみなさんの年格好の頃に字引を引いたら、らい病というのは天刑病、不治の病。業病、治らない、たちの悪い病気。こういうのがらい病の意味だと書いてあった。それがそっくり10年前のおばあちゃんの言葉はそうなんですよ。ぼくらは病気を患ってる当事者で、同情を求めるとか情けを乞うとかそういうことじゃないんだけども、人間として認めてほしいな。病気は病気、だけど人間なんだということをね。おばあさんを責めるわけじゃない。時の国に責任もあったわけね。

           
 最初にも言ったように、国がこの病気になるともう治すことはできない。だけどみにくい。もう手の打ちようがない。だからどこかに療養所というような病院をつくって、そこに無理やり引っ張って行って閉じ込めていこうというような方針をだしたものだから、国のえらい人たちがそういう方針を出すものだから、一般の人々は、やはりそうかということで、お医者さんもそうだしそれから宗教のお寺のお坊さんもそうだし、すべてがそうなんです。この病気になったものはそういうかたちで世の片隅に追いやっていけと。でないと日本という国ははずかしい。そういうみにくい病者を日本国中、あっちへいってもらい患者、こっちへいってもらい患者がいたぞというようなことで、見苦しいからそうして収容していこう。収容して隔離してしまおう。そこで隔離をする以上は出て行ったら困るね。閉じ込めておかなければいけないから、カゴの中に鳥を何羽か入れて鳥が逃げないようにするにはどうしたらいいか。蓋をあけちゃいかん。蓋を開けるときには気をつけなければいかんというのといっしょで、長島愛生園という療養所に患者を1200人、一番多いときは2000人を超えたんですよ。そういう中で取り締まりがものすごく厳しい。そして今度はそういう人たちを外へ行かさないためにどうしたらいいか。皆さんの財布の中にお金が入ってますよ。そういうお金、日本のお金は全部取り上げられてしまった。取り上げられて、代わりに愛生園でしか使えないお金に交換させられた。聖徳太子だとかそういう立派なお札だとか500円硬貨とかそういうものを持っていても全部取り上げられてしまった。それに代わって印刷した小さな紙を、これは1円、これは10円。そういうお金に換えられてしまった。そのお金で外へ行ってももう買えません。ただの紙になっちゃうからね。本当のお金を全部取り上げられてしまって、それにかえられてしまう。これも逃げ出さないようにするためということなんです。

                                  つづく

 

シリーズ・差別をなくす強調月間
  知っていますか?ハンセン病


                  人間回復をめざして④
                                                    長島愛生園 石田雅男さん


 そういう歴史がずうっとあって、4~5年前にハンセン病という名前に変えていこうということで、私たちの、同じ病むものどうしがつくっている大きな組織があってね、その組織でもって、「らい」というもののイメージがあまりにも悪すぎる、暗すぎる、よくないということで、この「らい」をあらためて、らい菌を発見したノルウェーのハンセン先生の名前をとって「ハンセン病」というふうにしたんです。これが3年前に正式に日本では「らい」という言葉は消えました。日本ではハンセン病が正式名称になった。日本ではです。専門のお医者さんで開く学会、「らい学会」ってありました。これが3年前から「ハンセン病学会」になりました。世界的には偏見とかそういうことではなしに「ハンセン」という言葉を使うことは難しいということで、国際的には「らい」はそのまま「らい」でいっているんですが。そういうことで少なくとも私たちの住んでいる日本ではもう「らい」という字は消えて、「ハンセン病」と。そしてハンセン病の患者も今はほとんどいなくて元患者といっています。


 元患者というのは今はもう治って、病気にかかっていない。治っているんだけど後遺症ということで、私もこう、手が曲がっている。手が伸びない。これは少し説明すると、「らい」ということでおそれられていたときには、無知なときには、お医者さんも無知だったわけね。そうすると、この手がマヒして知覚を感じない。熱いとか冷たいとかいう感覚が非常ににぶくなる。にぶくなるどころか完全に感覚がなくなってくる。すると火の中や沸騰した湯の中に手を突っ込んでも熱いも何も分からないという人たちが、そのハンセン病の症状。おまけに治療薬がなかったものですからそういう熱いところに手を突っ込んでやけどをする。いたくないから治療をしていても、ものをつかんだりいろんなことをするもんだから、傷口がどんどんこじれる。そういう悪循環を繰り返して、指はだんだん短くなる。皆さんの手と私たちの手はかわらないんです。さっと切ったら傷口は治ろうとしている。


 安静にしていたらすぐ治るのに、感じがないからつい乱暴に手を使ってしまう。そうすると傷口がこじれてしまう。一般の人よりも治りが遅いのはそういうことです。そういう繰り返しをしていくうちに指がいつの間にか短くなっていってしまったということで、これもハンセン病にかかったからではなしに、組織は同じように治ろうとしているんだけども感覚がないから、その人の責任で悪くなっていくわけ。きちっと管理をすれば治るわけね。昔の時代は休ませてくれなかった。ぼくも10才の時に、午後から勉強はなし。山に登って、こえつぎたんごって知ってるかなあ。排泄物を入れた大きな桶をかついで畑にまいた。ぼくが入ったときに上は18才まで子ども寮があった。そこでは午前中勉強だけれども、当時は先生の資格のない人が代用教員というかたちで教えてくれたの。19年からは近くの学校の分教所ということでやっと学校の先生の資格をもった人が教えてくれたの。こどもは100人ぐらいいましたね。ぼくがいったときに。そしてぼくたちが住んでいた部屋は、12畳に8人。半間の小さな押し入れを二人で使っていました。4つを8人で使っていました。だから弱肉強食じゃないけれども非常に小さくて力のないものは上の兄さん姉さんから毎日いじめられて毎日泣いていた。そしてお互いにひもじい思いをするから、うかうかしていたら昼ごはんも夕ごはんも力のある人に全部取られた。ぼくたち弱いものはどうするかというと山へ大根を取りにいったり、サツマイモができたころだったら盗みにいったりして、悪いことなんだけども、自分でそうして一生懸命生きてきた。


 そういうことでね、今日はこういう機会を与えてもらって、私はみなさんがたに心から期待をしたいんです。これからハンセン病ということに出会ったときにハンセン病はこわくない。治る病気になっていてこうなんだああなんだということを少しでも話をしてもらえたら、ああ来てよかったなあということで、私の方がこれから療養所に戻っても、みなさんがたがどうぼくの話を聞いてくれたかなあとか、そういうことをきっと何日か余韻として思うんじゃないかなと思います。この療養所にも今はいつでも誰でも来られて、またぼくのように行きたいときにはすっと出ていける。隔離も何にもない、全くの解放で一般の病院と変わらないような状態で私も毎日を過ごしているんだけども、ただ最後に言いますけど、そういう暗い過去が何十年もあったけど、ぼくは62才、ぼくたちの知り合いはみんな73才かそれ以上。80才前後の人たちが圧倒的に多いんだけども、そういう日本のお金を使えない、あるいは外出もままならなかった、人間扱いされなかった人たちの残りの時間を、そういう人たちの何十年かが、これから残されている何年かの中で、ああ橋がかかってよかった、ああ予防法が廃止になってよかったということを喜んで、たとえ1年でも半年でも、人間として生まれてきてよかったなあという思いで生涯を終えてほしいなあというふうに私は願っているし、私自身もそのようにこれからより人間らしくと言いますか、人間らしいとはどういうことかといいますと、私の場合は人間としての扱い、人間として認められなかったということがあったものですから、人間として認め合える、なかまとして交流をしていきたいなというふうに思ってますので、これからも人間として交流を深めていけたらいいなというふうに思っています。以上でお話を終わらせてもらいます。            (1999年6月11日)



 長い講演録の紹介になりました。ハンセン病も療養所も毎日の生活には関係ありません。遠い話です。確かにそうなのですが、どうか、本当のことを正しく知ってください。すべてはそこから始まります。