坂本竜馬という偶像
そもそも「坂本竜馬」と書いている時点で、『竜馬がゆく』にからめとられています。本人の署名などを見れば、「坂本龍馬」と書くのが筋でしょう。
この稿は「竜馬という偶像」ですので、「竜馬」で通します。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が産経新聞にを連載されたのは、1962年6月21日~1966年5月19日です。
もっともそれ以前から「坂本龍馬」は有名だったようで、明治時代に4回、大正時代に6回、書名に名前を冠した本が出ています。これは、幕末の志士のなかでは西郷隆盛と並ぶ多さです。『竜馬がゆく』は、それらの「決定版」といった位置になるでしょうか。
アメリカ人による龍馬研究本もあります。マリアス・ジャンセン著『坂本龍馬と明治維新』(平尾道雄・浜田亀吉訳)が1965年に時事通信社から出版されています。(私が持っているのは、1975年版のものです)
私は文庫版の『竜馬がゆく』を読んだ直後に、一応歴史を学ぶ学生らしく『坂本龍馬と明治維新』を読んだということです。
1ステップ入れてなお、私に残ったのは「司馬竜馬」でした。
「司馬竜馬」には、大きな齟齬はなかったのです。その時点では。
坂本龍馬は土佐の下級武士で、脱藩者です。明治政府の中心は薩摩・長州出身者でした。明治の半ば頃には「史談会」が盛んに行われていますが、龍馬と親交の深かった中心人物の多くは既に鬼籍に入っていました。詳しい史料がなくて当然です。
司馬遼太郎による多少の飾り付けはあったとしても、「司馬竜馬」は「坂本龍馬」のほぼ実像と捉えられたのです。
その後の歴史研究が明らかにしたことを加え、同時に司馬さんの創作(誇張)を取り除いていくと、「司馬竜馬」とはいささか違った人物像が浮かんできます。それが「実像」と断言はできませんが…。
龍馬ファンの多くがそうであるように、私も「聖地」のいくつかを訪れています。
桂浜に建つ銅像、京都・霊山の墓所(霊山と円山公園にも銅像があります)。
龍馬暗殺の舞台となった近江屋跡。「跡」と言っても歩道に小さな石碑が建っているだけですが。龍馬暗殺は見廻組によるものというのが定説ですが、相川司『龍馬を殺したのは誰か』(河出書房新社、2009年)を読むと今なお確定とは言い切れないようです。
おりょうの機転で命拾いした伏見の寺田屋。こちらは現存の建物があり、その時の刀傷とされる柱がありました。ファンにとって垂涎ものでした。過去形で書いているのは、今では当時との連続性が否定されているからです。
鹿児島の霧島温泉は、龍馬がおりょうと「日本初の新婚旅行」で訪れた地として宣伝しています。これは、寺田屋の一件で負った傷の療養にと西郷隆盛の計らいで霧島温泉を訪れたときのことを指しています。ただ、龍馬自身に「新婚旅行」などという概念や意識があったのかどうか。さらに、それが「日本初」だと証明するすべもありません。
龍馬が訪ねた勝海舟の屋敷は東京・氷川神社近くにありました。それも今ではマンションの脇に「勝海舟邸跡」の碑が建つのみです。
「聖地」も多くは靄がかかった状態です。
さて、坂本竜馬を「近代日本の幕開けに大きな功績を残した英雄」と評するとき、
「薩長同盟」
「大政奉還」
「船中八策」
をその功績として挙げています。
『竜馬がゆく』では、「亀山社中」におれる竜馬の存在は絶大で、他の人たちを過小評価して書いています。たとえば、饅頭屋の長次郎こと近藤長次郎は、「亀山社中」の中心を担っていたようです。
「亀山社中」は
『竜馬がゆく』に、長州が薩摩名義で武器を購入した話が出てきますが、龍馬が発案、仲介して両者の軍事同盟のきっかけをつくったということになっています。これについて、朝日新聞デジタル「坂本龍馬は教科書に必要か 大政奉還や薩長同盟、史実は」で
一坂太郎・萩博物館特別学芸員は次のように述べています。
発案は違います。長州の木戸孝允の回想録に「薩摩の名義で武器を買わせてくれと龍馬に言った」とある。木戸がお願いしますねと言ったと。龍馬はわかったと引き受けたが、何の返事もないので木戸がいらいらして、見切り発車みたいな形で伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に送り込む。ここは史料で確認できる。伊藤、井上の木戸への報告の中にも、薩摩が合意したとはあるが、龍馬は出てきません。
「薩長同盟」
龍馬の生涯で最大の業績が、1866年1月に成立した薩長同盟の仲介だと言われています。
これについてのWikipediaの記事です。
龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる[注 24 青山忠正を皮切りに、芳即正・三宅紹宣・宮地正人・高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」 (『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。]。
また、先の記事で一坂太郎氏は次のように語っています。
――薩長同盟はどうですか。薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結ぶ際に「龍馬らが仲介した」と教科書に出てきます。
薩長の間で何らかの周旋をしたという史実はある。例えば、薩摩藩から頼まれて「幕府が2回目の長州征伐の命令を出しても薩摩は動かない」という文書を長州藩に届けている。しかし、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に出てくる、彼の一喝で両者がいきなり手を結んだとか、そういう分かりやすいものではありません。
今の教科書で龍馬がどう書かれているかというと、徳川慶喜が朝廷に政権を返還する「大政奉還」のところで出てきます。龍馬と土佐藩重役の後藤象二郎が、藩主を通して将軍慶喜に大政奉還を勧めたと。しかし、ここに龍馬を入れるのは正しくない。龍馬が大政奉還を唱えたという根拠になっていた文書「船中八策」は、後世に創作されたとの説が有力です。龍馬が提唱したことを示す証拠は出ていません。龍馬は大政奉還が実現した後、新政府綱領八策という文書を書いていますが、当時の知識人たちが他に何人も言っている内容で、これも新政府に影響を及ぼしたという証言が見つかっていません。
竜馬の「功績」とされてきたものが瓦解していくようです。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書 2008年)などを見ても、こちらがより「実像」に近いようです。
しかし、「竜馬という偶像」を捨てても、龍馬の魅力にはいささかの変化もありません。龍馬が歴史の表舞台の極めて重要な場面に介在し、その類い希な行動力と周旋力で歴史に一定の影響を与えたことは間違いのない事実です。
であるからこそ、明治3年に龍馬は家名存続・永世十五人口を賜ってます(死者に報いるには十分すぎる賞典です)。また甥の高松太郎に、死者であり次男坊の「坂本龍馬」家の相続を認めているのです。これらは、明治政府をつくった人たちが龍馬の存在を認知していた証左です。
偶像は物語の世界です。歴史学習の具にはなりません。
しかし、学問的価値はなくとも、若者の夢やロマンに資するなら「偶像」大いに結構と、私は思うのです。