教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「生類憐れみの令」を授業する①

いささか唐突ですが、「生類憐れみの令」の授業化を提案します。

 

「生類憐れみの令」は、徳川幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定されました。

小学校ではその名称を教えることはあっても、内容を教えることはありません。

 

私自身、高校までの授業を通して綱吉については儒学を大事にして「湯島聖堂」を作ったことと、犬を愛護し「生類憐れみの令」を制定したことを項目的に習った記憶しかありません。

そして、「ちょっと変わった」いやもっと言えば「甚だ迷惑な」将軍だと認識していました。

 

そうした認識を改める出会いがありました。

1980年代のことです。

 

1983年に『たのしい授業』という月刊誌が創刊されました。

その前に、1973年に『ひと』という教育雑誌が創刊されました。私は1978年に教職に就いたのですが、ほどなくしてこの雑誌の読者になりました。

『ひと』の中心には遠山啓さんや板倉聖宣さんがいました。

その板倉さんが中心となって創刊されたのが、『たのしい授業』です。

 

『たのしい授業』は、板倉さんが提唱した仮設実験授業の会誌です。

その初期の号のなかに、「生類憐れみの令」の「授業書」がありました。

私が出会ったのは、まさにその「授業書」です。(その後、『生類憐れみの令 道徳と政治』〔板倉聖宣著、仮説社、1992年〕という単行本も出ています。紙の本は1760円、電子版は1408円。)

 

流通している単行本に「授業書」も付録して収録されていますので、ここでは詳しい内容は差し控えます。概要を追いながら、この授業のもつ魅力をお伝えできればと考えています。

 

「授業書」は、「質問」に対する答えを選択肢から「予想」し、「なぜそう思うか」を出し合います。「生類憐れみの令」の授業書は3部からなっていて、24の質問と「つけたし質問」が2つあります。

 

 

「生類憐れみの令」第1部①

 

17世紀の終わり頃、5代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」(生き物をかわいがるという法律)を出しました。

 

第1部では、「憐れみ」の対象となる「生類」について問うていきます。

 

江戸時代の代表的な家畜である牛や馬は憐れむべき対象だったのでしょうか。

 

えっ、ちょっと待ってよ。「生類憐れみの令」って犬の話じゃなかったの?

これでも日本史専攻の社会科教師である私は、初見の時まずそんなことを問題にしていること自体にびっくりです。

 

「憐れむ」を「だいじにする、かわいがる」ことだとすると、家畜だから当然だいじにしていたと思います。母屋の玄関近くに馬小屋(牛小屋)があったくらいですから。

しかし、鞭打って働かせることを虐げているとみるなら、これは憐れんでいないことになります。

 

歴史の実際は…

牛や馬は憐れむべき対象でした。

 

徳川実紀』「常憲院殿御実紀」

(貞享四年四月九日条 )

こたび前令にそむき、病馬を荒地に棄たるもの十人を追捕して、遠流せしめらる

( 貞享四年四月十一日条 )

生類愛憐のこと、先々も令せられしに、こたび武州寺尾田、代場両村のもの、病馬をすてし事ひ(僻)が事なれば、死刑にも処せらるべけれど、こたびはまづ遠流せしめらる、今より後、違犯せば重く罪せらるべしとなり

 

貞享4(1687)年4月のことです。

武蔵国寺尾田村と代場村の10人が病気になった馬を荒れ地に捨てました。この馬は農耕馬として飼われていたものと思われます。その馬が病気になったので遺棄したわけです。

病気になった馬を捨てるという行為は「生類憐れみの令」に背くことであり、死刑に相当するというのです。しかしまあこのたびは、遠流(おんる。伊豆諸島への島流しであったと思われます)で済ませてやろうというわけです。

 

今後、「僻事(ひがごと)」(心得ちがいのこと)が発覚したら重罪になるぞと脅されて、村人たちはどうしたのでしょう。

「貧しいものは養いかねることもあるだろうが、そういう時は町奉行所や代官などに訴え出でよ」ということだったようですが、最期まで看取って埋葬したのでしょうか。

この時代、行き倒れの牛馬、死牛馬の処理は被差別民衆の生業であったはずですが。

 

 

牛や馬以外はどうだったのでしょう。