教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

続・「1ヶ月で勝負」したクラスの記録 ~いのちかがやいて~⑬

映画「きらきら ~いのちかがやいて~」

 

「しばてん」8 秋祭り(ラストシーン)

 

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 ⑩「しばてん」のラストシーンは、相撲のシーンを撮った丘で撮影しました。

午後の逆光気味の斜光で撮りたいという、こだわりのシーンです。

7人の村人が思い思いの向きに立ち、空間の一点を凝視したまま静止しています。

 

「村の女3」と「村の女4」の台詞は、18年前の子どもの書き込みから借りたものです。演じることを通して「自前のもの」になってくれることを願っています。

 

 

「演じることを通して『自前のもの』に」という願いを抱くのは、遠い昔の学びの強い印象が背景にあります。そのことに触れておきましょう。

 

1988年6月、岡山で全国同和教育研究会の部落問題学習小研究会がありました。そこで、大阪府豊中市立新田南小学校の辻本昌枝さんの「渋染一揆の劇化に取りくんで」というレポートに出会いました。取り組みそのものもすばらしかったのですが、報告の中に私たちが演劇をしていく上で学びたい一文があったので紹介します。

脚本にこだわらず「行動線」のみ与え自由に演じさせ皆で意見を言い合った。場の理解と同時に自分の中から脚本の科白を見つけ、自分の中に「役」を創っていく作業だ。


演ずるということは、自分が役に近づくことでもあり、役を自分の方に引き寄せてくることでもある。つまり、自分自身の中にあるものを見つめ、それをふくらませ表現していく作業だから、役を通して(自分の身体を媒介にして)自分を見つめ直していく作業でもある。

 

「Nさんのように強く言うところがNさんのように迫力が出ないからどうすればいいのかな。自分が腹が立ってがまんできないような心はあまり経験したことないからなあ」と立ち稽古の途中で書いている子もいた。

 

頭で理解していた「皮多」の苦しみ・怒りが、演ずるという行為により、自分の理解を超えていたものであることが実感できたのであろう。こんな経験が、他人の思いに対して謙虚になれるベースを作るのじゃないかなと思う。

 

短期間だったが、それぞれの子なりに、自分の「役」を創っていった。「母」役を演じた子は、本番後うれしそうに「やっと役になり切れた」と言っていたが、他の誰でもない、まさに、その子の「母」だった。

 

辻本さんのレベルには遠く及ばないものの、「演ずるということは、自分が役に近づくことでもあり、役を自分の方に引き寄せてくることでもある」という言葉は私の教育活動を支える大切な柱になりました。

ちなみに、その年の秋に「しばてん」の劇化に取り組んだのですが、それが本稿で「18年前」のこととして出てくるものです。

 

 

さて映画「しばてん」は、「村の女4」の台詞のあと回想シーンの映像が流れて終わります。このエンディングシーンには、中島みゆきの楽曲「誕生」のおしまいの部分を使わせてもらいました。「…… Remember 生まれたこと Remember 出逢ったこと Remember 一緒に生きてたこと そして覚えていること」