教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その2・地域の戦争を記録する⑧

2011年度6年生の記録

地域の戦争体験 〈4〉

 

第2部 日中戦争・太平洋戦争中の子どもたち

 

2-3 戦争中の学校生活

 

 

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17年入学のAYさんは、「上級生はわらじ、ぞうり作り、高等科男子は松ヤニ採りをしていた」と記されています。わら草履作りについては、15年入学のAIさん、16年入学のAUさんも「習った」と書かれています。松ヤニ採りについては、12年入学のAZさんが「油を作るため、山へ松ヤニを採りに行った」、18年入学のAPさんが「上級生と山へ松ヤニ採りに行った」と書かれています。
炭焼きをしたという記録もあります。11年入学のAFさんによると、「17年18年は炭作りをした。山から木を運び、神社の近くで炭焼きをした」ということです。12年入学のAZさん、13年入学のBAさんも「学校で炭焼きをした」と記録され、17年入学のANさんは「高学年の人が炭焼きをしていたので木運びの手伝いをした」と書かれています。

 

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9年入学のAEさんは、「高学年になると、毎日のように兵隊さん送りに□□小学校まで行った。兵隊に行ってくださる家の掃除、庭の草引き等の手伝いをした」、11年入学のBBさんは「日の丸を持って神社に集まって、出征する兵隊さんを送った」、AFさんは「6年の時は兵隊送りでいっぱいだった」、18年入学のAMさんは「神社の境内では、毎日のように兵隊さんの武運長久を祈願して、日章旗を手に兵隊送りをした」と記録されています。また、17年入学のANさんは「兵隊に出征される時はお見送りし、戦死して帰られる時は遺骨を迎えに行った」と記されています。

 

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昭和16年12月8日、日本がアメリカと戦争を始めた日のことです。13年入学のAJさんは次のように綴られています。「4年生の12月8日、コマ回しの操作を誤りガラスを破損、職員室の片隅に立たされていた。日本軍の真珠湾奇襲攻撃、太平洋戦争突入をラジオが報じると、先生方は大興奮。『鬼畜米英撲滅』『皇国の興廃この一戦にあり』『八紘一宇の精神の涵養』などと叫ばれていた。夕刻遅くまで放置されていた私は、尿意に耐えられず濡れていた。」

 

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●●さんと▼▼さんの記録によると、運動場の隅にある大きな木の所に防空壕が掘ってあったそうです。16年入学のBCさんは「空襲警報が出たら防空壕に入った」、17年入学のANさんは「空襲警報が鳴り響くと全員が入った」、18年入学のAWさんは「空襲警報が出たら防空壕に走り込んだ」と記されています。それが、19年入学の人になると、BDさんは「授業中であっても空襲警報のサイレンが鳴ると、上級生の人と家まで走って帰った」、BEさんも「授業中にサイレンが鳴ると、家に帰った」と書かれています。戦争末期になると、空襲警報が出た時の避難の仕方が変わったようです。
19年入学のBFさんは、「毎日、運動場にあった防空壕に避難する訓練をしたり、登下校の途中敵の飛行機に見つからないように物陰や道路脇の溝に隠れる練習をした」と記されています。

登下校に関しては、18年入学のAWさんが「通学路で水路の中に身を隠したこともあった」、19年入学のAQさんが「帰り道、飛行機が飛んできたら草むらに寝たりした」、19年入学のBEさんが「登下校中でも空襲警報のサイレンが鳴ると、いつも持っている防空ずきんをかぶり、水路にうずくまった」と記録されています。

 

 

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11年入学のBBさんは「5、6年頃から軍隊式になった」と書かれています。13年入学のAJさんは「ブリキ製の筆箱には勇ましいな戦車が描かれていた」、17年入学のBGさんは「軍歌を大声で歌いながら歩いていた。上級生は絶対的な権限があり近付きにくい感じだった」と記憶されています。また、◇◇さんによると、「4年生の時、□□□の予科練隊を見学するため行軍した」そうです。9年入学のAEさんは「高学年になるとなぎなたを習った。エーイヤーと大声で気合いを掛けて習った」、17年入学のAYさんは「運動場では国防婦人の方が竹槍を持ってヤーヤーと槍を突いていた」、ANさんは「城山の頂上と運動場で手旗信号の練習をしておられた」と記録されています。