教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その2・地域の戦争を記録する⑦

2011年度6年生の記録

地域の戦争体験 〈3〉

 

第2部 日中戦争・太平洋戦争中の子どもたち

 

「第2部 日中戦争・太平洋戦争中の子どもたち」は、老人会の皆さんにご協力いただいたアンケートをもとに作成しました。

 

第2部は、次の4項で構成されています。

2-1 戦争中の小学校

2-2 戦争中の授業

2-3 戦争中の学校生活

2-4 戦争中の家庭生活

 

さらに、「2-4」項は以下の3目に分かれています。

2-4-1 くらし

2-4-2 食事

2-4-3 遊び

 

この分類構成は、本来であれば、のちに子どもたちが探究する際のテーマになるものです。

 

 

今回は、「2-1 戦争中の小学校」と「2-2 戦争中の授業」を紹介します。

 

 

2-1 戦争中の小学校

 

 

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戦争中の学校について、10年入学のAAさんは「校舎は古い建物で、床が落ちそうだった」、8年入学のABさんは「雨が降ると雨漏りし、バケツを持って走り回った」、8年入学のACさんは「床にすき間があって、そこにほこりが落ちた。ストーブは家から薪を持ってきてたいたが、すき間が多くて暖かくなかった」と記録されています。
また、14年入学のADさんによれば、「体育館も講堂もなく、行事や儀式の時は間仕切りを外して2つの教室を1つにした。教室は4つしかなく複式学級だった」ということです。

 

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当時の小学校は、■■尋常高等小学校と言って、尋常科6年と高等科2年の8学年が4つの教室で勉強していました。16年に■■国民学校と名前が変わり、尋常科は初等科と呼ばれるようになりました。17年入学のANさんは、「疎開してくる子が多く、クラスの人数が増えた」と記されています。

 

それでは、今回のアンケートに答えていただいた、昭和8年から昭和19年入学のみなさんの卒業写真を紹介しましょう。

学校に、卒業写真が保存されていました。その中から関係年度のものを紹介しています。(ここでは次の1枚のみ紹介します) 

 

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昭和19年の高等科の人たちの写真には、卒業生の両側にこれまでなかった掲示板が写っています。右の方には「第二分隊長」などの文字が、左の方には「小国民よ協力せよ」という文章が書かれています。 

何人もの人が戦闘帽をかぶっています。また、足にはゲートルという布をまいているのが分かります。戦争一色というのが写真からも分かります。

 

 

 

2-2 戦争中の授業

 

 

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8年入学のACさんは、「運動会は今と変わらない感じだった。学芸会は教室の戸を外して広くして、教壇を積んで舞台にした。合唱、劇、朗読などをした。お金のかかる修学旅行は、兄弟がゆずり合って行った。それでも行けずに我慢して子も多かった。」、9年入学のAEさんは「1年から習字を習い、4年生には裁縫を習った。雨の日は体操ができず、ソロバン、暗算のけいこをした」と、戦争が激しくなる前の様子を紹介してくださいました。

 

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学校の授業は、12年の日中戦争を境に大きく変わります。
11年入学のAFさんは「勉強は漢字の書き取りくらいだった」、12年入学のAGさんは「雨が降ると勉強を教わった」と言われています。さらに、15年入学のAHさんやAIさんによると、「ほとんど授業はできなかった」「学ぶというより作業が多かった」ということです。

 

 

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授業の内容も戦争の色合いが強くなります。
13年入学のAJさんは、「川をせき止め、『潜航艇』などと称して水練を教わった。シンガポール陥落の時、『昭南島』と呼ぶようにとゴムまりを1つもらった」、AKさんは、「5、6年生の頃、音楽の楽譜はドレミではなくハニホヘトイロハだった」と記されています。
14年入学のADさんとALさんは、「軍国主義の教育で、男子は軍人になることを教育された」「教育に関する勅語、青少年学徒に降し賜りたる勅語の暗記をした」、18年入学のAMさんは「毎日朝礼があって、教育勅語を暗記して一斉朗読した」と記されています。

 

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17年入学のANさんは「教科書は上級生の人の古い本を借りて勉強した」、AOさんは「3~4年生の頃から教科書がなく、兄弟や親類から借りていたが、私は借りる人がなく、学校では見せてもらえても家で勉強できなくて大変困った」、18年入学のAPさんは「ノートや鉛筆が不足していた。教科書は上級生の古い本を借りていた」、13年入学のAKさんは「習字の時間には半紙の大きさに切った新聞紙に何回も紙が重くなるほど書いて、最後に先生から白い紙を1枚だけもらい、失敗すれば代わりがないので緊張しながら書いた」と、教科書や学用品の苦労を記録されています。さらに、19年入学のAQさんは「学校で配給のくじ引きがあった。くつなどが当たった人は喜んでいたが、私はいつも何も当たらなかった」と記されています。

 

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20年8月15日に戦争が終わり、教科書にも変化が表れます。
19年入学のARさんは「教科書の所々に墨を塗って消した」と、戦争に関係する部分を墨で消した「墨塗り教科書」の記憶を記されています。
17年入学のASさんは、「終戦後、教科書がザラ半紙で綴った薄い本になった。上と下に分かれていて、さし絵も何もなく粗末な本だった」と新しい教科書について書かれています。同じく17年入学のAOさんは、「5年生になって、うすっぺらな本とはよべないような教科書をもらった。1人ずつもらえた時は、本当にうれしかったのを思い出す」と書いてくださいました。

 

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運動場を畑にしてサツマイモを作ったと書いてくださったのは、13年入学のAKさん、14年入学のADさん、15年入学のAHさん、AIさん、16年入学のAUさん、17年入学のANさん、18年入学のAWさん、APさん、AMさん、19年入学のAXさんです。イモ以外にも、○○さんは麦を、△さんはカボチャを作ったと記憶されています。