教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その2・地域の戦争を記録する⑨

2011年度6年生の記録

地域の戦争体験 〈4〉

 

第2部 日中戦争・太平洋戦争中の子どもたち

 

2-4 戦争中の家庭生活

 

2-4-1 くらし

 

 

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8年入学のACさんは「秋の穫り入れ時は、昼にもみの天日干しをひっくり返したり、下敷きを巻いたりした。稲運びも多かった。家の手伝いの主なものは、水くみ、子守り。手伝いのため一緒に遊べず、くやしい思いをした子も多くいた」と書かれています。
子どもたちはとてもよく手伝いをしました。8年入学のABさんは「かまどでご飯をたいたり、お風呂を沸かすための枯れ木を拾いに行った。お風呂へ水を汲んだりした」、9年入学のAEさんは「よく田んぼの手伝いをした。秋は学校が終わるとすぐ田んぼへ行って、稲を持ってはだしで運んだり、稲を刈ったり、お月様が上の方へ来るまで手伝った」、10年入学のAAさんは「学校から帰ったら子守と夕ご飯炊き」、17年入学のANさんは「学校から帰ると弟や妹の子守り、夕方はバケツで井戸より風呂水くみを手伝った。田植えや稲刈りの手伝いもよくした」、18年入学のAPさんは「学校から帰ると井戸から風呂水、炊飯の水くみをした」、BHさんは「水汲み、杉葉拾いなどの手伝いをした」、BEさんは「弟や妹の子守りをよくした」、AXさんは「風呂の水汲み、子守りなどをした」と教えてくださいました。

 

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電気のことを書いてくださった方もおられました。
9年入学のAEさんは「家に1個の電気は20燭の光しかないのに、暗い光の中で姉の二人で勉強した」、10年入学のBK之さんは「電灯は家に2、3灯しかなかった」、13年入学のAKさんは「電灯は夜しかつかなかったので、夕方暗くなるまで外で遊んでいた」、17年入学のAYさんは「夜は灯火管制があった」、ANさんは「電気は1軒に1灯だったので、1個の電気の下で火鉢に火を起こし、家族全員がそこに集まって子どもは勉強、母は針仕事、父はわらで草履や炭俵を作っていた」と記録されています。 

 

 

2-4-2 食事

 

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食事については、食べるものがない状態が続いたようです。
10年入学のBK之さんは「おかずが1~2品と麦飯、米飯のみ」、11年入学のBBさんは「食べ物は米3割、麦3割、かぼちゃ、いも類を食べていた。昭和19年~25年頃まで米不足」、AFさんは「麦ご飯に大根など家で作った物ばかりだった。おやつは家で作ったおまんじゅうやかき餅やきりこもあった」、12年入学のAZさんは「家が農家でありながら供出するため米がなく、いもや野菜を主食として食べた」、14年入学のALさんは「食糧難で、甘い物はなかった」、15年入学のAHさんは「くらしは貧しく、白いご飯はほとんど食べることができなかった。麦飯、おかゆ、ぞうすい。魚や牛肉はなく、ほとんど野菜ばかり」、AIさんは「麦ご飯、代用食、おじや等を食べた。甘味料も自家製の物」、16年入学のBCさんは「米は供出されるので、ご飯はカボチャ、芋や麦を入れて食べた」、BIさんは「麦ご飯、代用食、野菜を食べた」、17年入学のBJさんは「イタドリ、ツンバラ、クロンボ、芋、大きな南瓜ばかりで、手のひらがが黄色になった」、ANさんは「友だちと山へクリ採りやイタドリ採りに行っておやつにした。おやつは豆を煎った物やかき餅、いもなど」、AOさんは「食べ物がなく、おやつは柿やイタドリ、アキハゼなどだった」、18年入学のAWさんは「食べる物がなく麦飯と芋類だった」、APさんは「芋、芋蔓、麦飯、粟、きびだんご、芋のお粥を食べた」、AMさんは「白米のご飯は正月とお祭りだけ。普段は麦ご飯、おかゆ、芋がゆだった」、19年入学のAQさんは「サツマイモや南瓜などを毎日食べた。南瓜の種も煎って食べた。イタドリなどもよく取って食べた」、ARさんは「おかゆ、麦、南瓜、いもが主食だった」、BEさんは「お菓子はなく、南瓜やサツマイモ等がおやつだった」、BFさんは「芋や麦ご飯、粥などの粗食だった」と振り返っておられます。

 

 

2-4-3 遊び

  

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戦争中、子どもたちはどんな遊びをしていたのでしょう。キーワードは「手作り」と「外遊び」です。
8年入学のACさんは「女子はお手玉、まりつき、ゴム跳び、男子はドッジボール、魚つり、土手すべりなどをした」、ABさんは「縄跳び、かくれんぼ、鬼ごっこ、石蹴り。山へ登り、花を摘んで帰ったりした」、9年入学のAEさんは「お手玉、縄跳び、かくれんぼ、押し出しをして近所の子と仲良く遊んだ」、10年入学のBK之さんは「雨の日はコマ回しをした」、11年入学のBBさんは「男は戦争ごっこをしていた。高学年の女子はなぎなたの練習をしていた」、12年入学のAGさんは「晴れの日は鬼ごっこ、雨の日はお手玉をして遊んだ。男の子はペッタン」、13年入学のAJさんは「竹とんぼ、水鉄砲、弓矢、竹馬など、自分で作って遊んだ。運動場の片隅に屋根をもつ立派な土俵が作られ、相撲を取っていた」、14年入学のADさんは「外での遊びが多く、鬼ごっこドッジボール、騎馬戦、相撲等をした。魚釣り、魚すくい等の川遊びも多かった」、ALさんは「帽子取り、騎馬戦、棒倒し」、15年入学のAHさんは「竹馬、縄跳び、ベッタ、コマ回しをして遊んだ」、AIさんは「お手玉、かくれんぼ、鬼ごっこ、縄跳び等をした」、16年入学のBCさんは「糸取り、お手玉、かくれんぼ、縄跳びをした」、AUさんは「自転車のリムの輪回し、鬼ごっこ、ベッタン、かくれんぼをした」、17年入学のAYさんは「凧揚げ、弓、竹馬、竹とんぼ、木そり作り、リム回しをした」、BLさんは「お手玉、折り紙で着せ替え人形を作ってジャンケンで勝った者が好きな形の人形や同じ色を寄せ合うゲーム、石蹴りをして遊んだ」、BGさんは「学校から帰る途中で兵隊ごっこの遊びがつい本気になり、血を流したこともあった」、BEさんは「8合戦、野球、そり滑りなど、手作り道具で遊んだ」、18年入学のAWさんは「かくれんぼ、石蹴りなど外遊びが多かった」、APさんは「竹馬、そり、水砲、山登り、カルタ、コマ回しをして遊んだ」、19年入学のBMさんは「まりつきやてんちゃんで遊んだ」、ARさんは「鬼ごっこ、かくれんぼ、ラムネ、コマ回し、ベッタン、野球等の遊びに明け暮れた」、BHさんは「川魚、トンボ採り」、AXさんは「田んぼのススキでかくれんぼをしたり、ペッタン、竹馬、木登り、川遊びをした」ということです。

戦争の影響を受けながらも、自分たちで遊びを作り、精一杯生きていたことが分かります。

 

 

このシリーズの前半で紹介した「少年F ~最後の兵隊さん~」(2014年度)は、2011年度の取り組みがきっかけで生まれました。「一次資料」が「探究」につながった唯一の事例です。2014年度を最後に職を辞した私には、その後の取り組みはありません。

しかし、こうした「一次資料」が存在することで、だれかが「探究」のしごとを引き継いでくれるかもしれません。