教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

音楽で人権教育を考える③

今回は、在日朝鮮人問題がテーマです。

 

最初にテーマの「表記」について触れておきます。

ここでは「在日朝鮮人」という表現を、日本に在留する朝鮮半島にルーツを持つ人々の総称として用いています。

「在日韓国・朝鮮人」として場合は、韓国(大韓民国)籍・朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)籍を持つ在留外国人といった意味合いになります。

 

放送禁止歌の特集をしているわけではありませんが、今回紹介する「イムジン河」は発売禁止になった曲です。 

 

イムジン河(1968年)

  作詞:朴世永原詩・松山猛訳詞

  作曲:高宗漢

  歌:ザ・フォーク・クルセダーズ 

 

イムジン河」は、1968年にザ・フォーク・クルセダーズ加藤和彦北山修、端田宣彦)によって発表された歌ですが、発売日と同時に発売中止になっています。

よく知られている「悲しくてやりきれない」は、「イムジン河」の発禁が理不尽で「悲しくてやりきれない」と歌った曲です。

なお、「イムジン河」は2002年3月に当時の音源のままリマスタリングして復刻されていますが、CDには「悲しくてやりきれない」も収録されています。

 

2003年1月10日、『週刊金曜日』の伊田浩之さんがブログで「イムジン河」のことを書いています。

 

イムジン河

          【『週刊金曜日』風に吹かれて(23)伊田浩之】


 1月10日号で、きたやまおさむさんと筑紫哲也・本誌編集委員の対談を掲載しました。「ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)」が昨年、34年ぶりに“新結成”されたことが対談実現のきっかけです。対談の詳細は、本誌を読んでいただくこととして、このコラムでは、あるフォークルの曲について書きます。
 新結成されたフォークルの1回限りのコンサートは昨年11月17日に開かれました。そしてコンサートでは、幻の名曲と言われてきた「イムジン河」も演奏されました。朝鮮半島の38度線を越え、北から南へと流れるイムジン河臨津江)の流れに、南北分断の悲しみを歌った朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の歌です。
 なぜ幻と言われてきたのか。それは、1968年にレコードが発売される寸前までいったものの、作者名の明示がなく、日本語詞が原作に忠実でないなどの点について抗議を受け、発売が中止されたからです。民放も放送を自主規制していましたが、多くの人に歌い継がれてきました。2000年に平壌で行なわれた南北首脳会談を機に、「統一を願う歌」として再び脚光を浴び、昨年3月、34年の歳月を経て、フォークルのオリジナル盤が発売されたのです。
 コンサートで、きたやまおさむさんは次のように話しました。
「原詞にとらわれないオリジナルな歌詞を、今回ぜひ、コーリアの方にも理解していただこうと思い、(朝鮮語に)翻訳していただきました。翻訳はもちろん、在日コーリアンの方々にお願いしました。
 この歌は、今も現実を歌い上げています。そしてイムジン河とは朝鮮半島に流れる河ですが、日本と半島の間にも、また世界のどこにでも、そして、こんにち私たちの間にでも流れている河だと言えそうです。
 そういう状況をふまえて、新たな歌詞を作ってもいいかと思い、考えて、とても夢のある新しい歌詞をつけました。朝鮮語の歌詞を1番とし、松山猛作詞の2番を2番として、最後の3番を新しく作りました。新たな歌詞で歌わせていただきます。おそらくこれが、最後のフォーク・クルセダーズの最後のイムジン河になると思います」
 そして歌われた3番は、南北首脳会談など雪解けムードを反映し、未来への希望を込めた内容でした。日本と北朝鮮の国交正常化交渉が膠着状態にあるなか、さまざまなことを考えさせられる歌でした。

 

 

認定NPO法人ニューメディア人権機構のホームページ「ふらっと 人権情報ネットワーク」に、「イムジン河」を訳詞・作詞した松山猛さんの文章が紹介されています。

2002/11/29
僕らの周りには渡れない「イムジン河」がたくさんある

                      作家 松山猛さん


朝鮮半島の南北軍事境界線近くを流れる川に祖国統一を願い、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)で作られた「イムジン河」。その美しい調べを日本で偶然耳にしたのは、「けんかよりサッカーで勝負しようよ」と朝鮮中級学校に乗り込んだ、中学生の松山さんだった。北朝鮮の愛国的な歌曲を、平和を願う日本のフォークソングに生まれ変わらせた張本人である。


僕が子どものころ住んでいた京都・東福寺界隈には、いろんな人たちが暮らしていました。近くには朝鮮から来た人たちの集落があったし、朝鮮動乱で傷ついた連合国軍の兵士のための病院もあって、古い京都の町並みにチマ・チョゴリ姿のおばさんや、アメリカの黒人兵やオーストラリア兵たち、また托鉢の坊さんも行き交うという不思議な風景が広がっていた。でも、それは僕にとっては「当たり前の世界」だったのです。
小学生の頃は朝鮮系の子とも仲良くなって家に誘われ、テレビを観せてもらいに行ってました。「ニンニクくさいから」と仲間に入らない同級生もいたけど、うちの両親は何も言わなかった。ただ、いつもおやつに出されるキムチが辛すぎて、母に頼んで持たせてもらったのが、おせんべいやカリン糖。子ども心に「なぜ日本に朝鮮の人たちがいるの」と両親に聞いたりする子でした。
中学生になった僕には朝鮮系を含む新しい友だちもでき、彼らが民族差別の悲しさを弁論大会でせつせつと訴えかけているのを聞いて、差別ということを意識しだした頃でもあった。彼らとは、よく将来の夢を語り合ったりしてたけど、学校の外では市立中学生と朝鮮中級学校の生徒とのいがみ合いが絶えず、駅で会えばケンカ、祭りで会えばケンカという時代でした。

 

どここらか聞こえてきた「あの美しい歌」
日本全体がアメリカと安全保障条約を結ぶかどうかで大騒ぎになっていて、政治家暗殺が起きるなど、主義・主張の違う人は排除しようという動きが強かった時代でね。せめて中学生同士の争いごとをなくしたかった僕は、ケンカよりサッカーの対抗試合をして理解を深め合おうという計画を立てた。担任から「大人が介入するより子ども同士でやったほうがいいよ」と勧められ、僕は、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行ったんです。その時、聞こえてきたのが、コーラス部で練習していた「あの美しい歌」でした。
「きれいな歌やな」 と思ったと同時に、どこか物悲しいメロディーに僕は魂を射ぬかれた感じがして、帰りにはその曲を口ずさんでいました。
その頃の僕は、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いてましてね。周りに気兼ねなく音が出せる九条大橋で練習をしていて、同じようにサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君と仲良くなり、気になっていた「イムジン河」を教えてもらえることになったんです。数日後、Mくんは譜面と朝鮮語の歌詞と、1番の日本語訳をメモしてきてくれた。意味が分かるようにと新しい「朝日語小辞典」も添えて。ちょうど親しくしていた在日の多くの友だちが、帰国船で北朝鮮に帰っていった時期で、歌詞の意味を聞いて複雑な心境でした。
「南北に引き裂かれた朝鮮半島。水鳥は自由に行き交えるのに、人間は自分たちが作った境界線にとらわれて生きていかなきゃいけない。僕ら人間も自由でありたい」と。


「南北分断で人々がかかえる哀しみを、伝えたかっただけ」
その後も跡を絶たない人と人の争い。ベトナム戦争も、アメリカの黒人差別も、ごく身近で起きていた国籍が違うだけで結婚できない人たちの問題も・・、僕らの周りには目に見えない境界線、渡ることができない「イムジン河」がたくさんあることを知らされました。だからこそ「イムジン河」を初めて聞いた感動を、大人になるまで持ち続けていたんだと思うんです。
10代の終わりに、コミカルな歌で人気のあったフォークグループ「フォークル」と仲間になり、相変わらず続く世間の差別意識を変えるためにも、まず身の周りから人間の自由や平等を音楽で訴えようと、加藤和彦くんに「大切にしている歌がある。歌ってくれないか」ともちかけた。聞き覚えた旋律を加藤くんが採譜し、2番3番の歌詞は、「南北がいつかひとつになれば」という気持ちをこめて、僕が書き加えることになった。そこで誕生したのが僕たちの「イムジン河」でした。
初めてコンサートで歌った時、会場は今まで体験したことのない静けさにつつまれ、演奏が終わっても静まりかえったまま。しばらくして嵐のような共感の拍手が起こり、それは感動的でした。でも、それも商業音楽などやる気はないアマチュア時代のこと。それぞれが学業に戻る時、解散記念にと「帰ってきたヨッパライ」や「イムジン河」を入れた300枚のアルバムを作ったんです。

その中の1曲「帰ってきたヨッパライ」がミリオンセラーとなり、「イムジン河」が第2弾として東芝音工(現在の東芝EMI)から発売されることになった。関係者はだれも曲の由来を知らず、朝鮮民謡だろうと作者不明のままシングル盤13万枚のプレスが済んでいた。ところが発売直前に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)に作者がいて、原詞と違う、日本語歌詞も認めないという抗議があった。作詞は北朝鮮の国歌にあたる「愛国歌」を書いた朴世永(パク・セヨン)、作曲は高宗漢(コ・ジョンハン)。1968年2月、政治的配慮から発売自粛となった。
当時、京都の小さな広告代理店のグラフィックデザイナーだった無名の僕には、きちんとした説明はほとんど何もなかった。「我慢してくれ」のひと言。人間関係がおかしくなり、新聞には「盗作か?」と書くところもあり、説明しようにも誰も聞きに来てくれる人もなく、自分の胸にしまい込むしかなかった。「めちゃくちゃにこんがらがって、放ったらかしになった毛糸玉みたいな状態」でした。あの理不尽な思いは、分断された朝鮮半島の人々の思いと共通するのかもしれない。結局は自分が強くないと負けてしまう。このことがあったからこそ、僕は何にも縛られず自由に生きる道を選んだんです。

 

人と人の心を隔てる問題を、見つめ直すきっかけに
その後、デザインの勉強に上京し、いつの間にか物書きもやるようになり、結婚して子どもも生まれ、そのときどきを懸命に生きてたけれど、過去を振り返ると、ふと思い出していた「イムジン河」。でも、それ以上に覚えてくれていた人がいっぱいいた。この曲を世に出したいと思ってくれてた人は、想像以上にいたんです。その一人が同じマンションに住んでいた在日コリアンの友人。彼から「あの歌を日本語にした松山さんがイムジン河をまだ見てないなんて」と言われ、共に38度線への旅に出たのが7年前の冬。
軍事境界線という現場を自分の眼で見たことで、改めて半島の分断について考えさせれました。その時は凍てついていたイムジン河にも、夏には機雷が浮いていたりするそうで、統一展望台の向こうには大きな北朝鮮の旗がはためいていた。そして、境界線の地下には北朝鮮が掘ったとされる急勾配のトンネルがあり、その先には見えない1本の境界線に向かって見張りの兵士が立っている。青春の時期に心を痛め、気になっていたことが、レコードの発売中止という事実も含め、30年近く経った今も、状況が何も変わってなかったことにすごいショックを受けた。「イムジン河」は、まだ終わっていない物語だったんです。

もう一度、僕にできることがあるとすれば、さまざまな現実を次の世代に気づいてもらうためにも「イムジン河」を世に送り直すこと。朝鮮半島の問題だけではなく、だれの身の周りにもある親子や人間関係の断絶など、人と人の心を隔てる問題を語り合い、見つめ直すきっかけになればいいと、また、音楽を通じてなら理解の糸口になるのではと考えたんです。新しいレコーディングのためミュージシャンの息子・輝(ひかる)とその仲間に編曲を委ね、新人の在日コリアン歌手・金昌寿(キムチャンス)の歌で、僕がプロデュース。そのニューバージョン盤がきっかけになって、封印されていた復刻版が世に出ることになった。みんなが本当に聞きたかったのは、34年前に出すことができなかった「イムジン河」だったんです。

 

地球上のどこに住もうと同じ人間
実際に34年ぶりに聞いたイムジン河は、それは感慨深いものがありました。でも、まだまだやりたいことはいっぱいある。「『イムジン河』は、アジアの『イマジン』だ」といってくれる音楽プロデューサーもいる。非常に象徴的な歌でもあるし、今も戦いが続くパレスチナ語やイスラエル語、ヒンズー語など、いろんな言葉で歌われればと願っています。
取材旅行が多い僕は、これまで宇宙人以外、地球上のいろんな人と出会ってきましたが、人間ってそんなに違うものじゃない。腹が減ると飯を食い、お腹がいっぱいになれば消化して出すものは出す。民族や宗教の違いといったって、ほとんど変わりはない。みんなで裸になって風呂に入れば、いっしょの人間ですよ。
それが、権力を持ちたい人間が一人いれば、差別が生まれる。社会をシステムアップする時に生まれるのが差別です。明治という近代化の時代に、それはより固定化されたのじゃないでしょうか。差別問題がクローズアップされたのは戦後ですが、僕は案外、差別って作られたものじゃないかと思う。『差別』という「固定化された言葉」を使い出した時点で、もうそこから進歩できないような気がしてならないんです。
「在日」というと言葉にしても、大抵の人は外国人というとらえ方をしてしまう。でもよく考えると、日本人を含め、日本に住むこと自体が在日。長い目で見れば、日本に来た順番が違うだけなんですよ。何千年前であれ、何十年前であれ、日本に来て、日本に定着した人だけのこと。陣取り合戦みたいなものでしょう。「自分の先祖は侍だった」とえばる人もいますが、それは先祖の話で、その本人が努力したわけじゃない。
国境だって、民族や考え方の違いから人間が地図上に引いたもの。国が固定されることで、○○人と決められ、○○人だからと戦争に送られ、拒否すると卑怯ものよばわりされる。このほうが問題だと思いませんか。僕たち人間はどうあがこうと、どの国に住もうと同じ人間。この地球からは身動きできないんですから。

 

 

イムジン河」の2番に、「誰が祖国を 二つに分けてしまったの 誰が祖国を 分けてしまったの」という歌詞があります。

 

「祖国を分ける」軍事境界線のある「38度線」は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインです。

そもそも、なぜ北緯38度線なのでしょう。

朝鮮半島が日本の植民地であった時代、北緯38度線より北を関東軍が、南を大本営が管轄しました。それがそのまま分割占領ラインになったわけではないようですが、「38度線」を設けたのは旧日本軍です。

 

朝鮮半島が日本の植民地であった時代、多くの人が日本に渡ってきました(いわゆる「強制連行」を含む)。その人たちや子孫が「在日一世」「在日二世」「在日三世」といわれる人たちで、「在日朝鮮人問題」と呼んでいるのはこの人たちに対する差別問題です。

過去の歴史を含め、「在日」を生きる人たちの人権課題は解決したでしょうか?

「新渡日(ニューカマー)」といわれる在日外国人の人権問題もあります。しかし、「在日朝鮮人問題」は他とは一線を画した教育課題があると思います。