教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

音楽で人権教育を考える②

部落(同和)問題は「重大な社会問題」であり、その解決は「国の責務」であるとともに「国民的課題」であるとした「同和対策審議会答申(同対審答申)」が出されたのは、1965年のことです。

 

この答申を受けて、1969年に「同和対策特事業別措置法(特措法)」が成立します。

「特措法」は10年の時限法で、1979年に3年間延長され、1981年度末まで続きます。

その後、1982年からは5年時限法の「地域改善対策特別措置法(地対法)」に引き継がれます。

さらに1987年からは、5年時限法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)」、1992年からは同法の5年延長、1997年からは一部再延長により、法に基づく同和対策事業は2001年度末(2002年3月)まで続きます。

 

 

1969年は、法に基づく同和対策事業が始まった年です。

 

まさにこの年に、部落問題をテーマにした楽曲が発表されます。

そこには「偶然」の側面と「必然」の側面があったと、私は感じています。

部落問題を解決するための審議会を設置し、その答申を受けて法制化していく過程において、国が「能動」的であったとは思えません。人権や民主主義が前に進むとき、たとえば大正デモクラシーの時期に労働運動や農民運動が広がるなかで全国水平社が創立されたように、政治運動や労働運動のうねりがあります。そうしたうねりの一つとして、部落問題の前進もあったと考えています。

ことのほか精度の高いアンテナを持つ音楽家が、時代の空気を吸いつつ楽曲を生み出したのだとしたら…。それは、「必然」の一致だったと言えるでしょう。

 

 

今回紹介する曲は、3曲あります。

 

「チューリップのアップリケ」

 (作詞:岡林信康・大谷あや子 作曲:岡林信康 歌:岡林信康 1969年3月)

「手紙」

 (作詞:岡林信康・中島一子 作曲:岡林信康 歌:岡林信康 1969年8月)

「竹田の子守歌」(歌:赤い鳥 1969年)

 

 

 

岡林信康さんは、1969年3月に「チューリップのアップリケ 」、8月に「手紙」と立て続けに部落差別をテーマにした曲を発表しています。

 

「チューリップのアップリケ」の作詞欄に大谷あや子という名前があります。大谷あや子さんは、この曲の詞の元になる作文を書いた被差別部落の小学生です。

岡林さんの著書『バンザイなこっちゃ』にこう書かれています。

あの歌当時(引用者注:2年間通った同志社大学を退学し、琵琶湖干拓宅建設現場で働いていた1968年)ボランティア活動をしていた養護学校の生徒の詞が原型となっているんです。ある日、そこの先生から見せていただいた生徒の作文に、いくつかの印象的なフレーズがありました。

作文のフレーズの断片を繋ぎながら、部落差別と貧困の問題を告発する内容の詞になっています。(歌詞の掲載は控えます。ネットで検索を。)

 

「手紙」は、結婚差別の問題を告発する内容です。

この詩は中島一子さんの遺書から岡林さんが作詞したものです。 

『わたしゃそれでも生きてきた』(部落問題研究所、1965年)に収められた、中島一子さんの「死の前のてがみ」(両親に宛てた遺書です)から作詞し、曲をつけたということです。

「死の前のてがみ」(『わたしゃそれでも生きてきた』所収)

 

 前略、秋らしくなり朝夕は寒さを思わす今日このごろ、家族の者にはかわりありませんか。このようなことを、お母さん、お父さんにいえばわらわれ、また、しかられるかもしれません。いたしかたありません。満さんのことを思えば、交際をしかけたのが、昨年の3月、1年6か月、今2人の間には結婚という大問題が目前にせまっています。
 ことしのすえか来年の始めには、おじいさんから満さんに店がわたされます。そこで問題は、私が同和地区民ということで結婚できません。私と結婚したばあい、満さんは店をいただけません。満さんにとっては一生にいちどのチャンスです。2人で店ができれば両親にもすこしくらいのことは……。
 彼も現在私を離したくないし、また店はほしいとまよっています。このさい、私は彼の幸福のために身をひく決心はしていますが、こんなに同和地区民であるということを痛切に感じたことは今はじめて……。
 ○○ちゃんの失敗、私の失敗、こんな星の下に生まれたことがそんなにまで悪く、またどこが違うのか……。この世をうらむよりしかたがありません。同和地区の者同志が結婚すれば、またその子供は、私と同じような思いをするでしよう。私はもう結婚せず一生を過ごそうと思っています。いやになれば自分でこの世を去ります。根拠のないことで悩むなんて、バカな……思えばなみだの連続です。こんな事をしょうちでまたこんな私を……2人が結婚できないのなら死のうとまで愛してくれた満さんが、私にとって最高の人だったかも知れません。
 この世の中に結婚や就職に敗れた者がどれだけいるかわかりません。この世を去った者も。
 いろいろなことを考えているうちに、なみだとともに一生結婚しないことにきめました。
 親は子供の幸福をねがい、きょうまで大きくしたといいたいでしょう。よくわかります。親の意にそむくかもしれませんが、私の人生の生きかたです。
 こんなに、らくたんしたのは、生まれてはじめてです。いまいちど彼と話し合うつもりです。彼も泣いていました。ともに泣いて別れるのが私たちの運命でしょう。
 妺や、弟は上の学校へやってください。へんな、くらい手紙になりましたが、かかずにはおれなかったのです。

 

 中島一子さんは、丸顔のポチャポチャとした少女でした。よくしゃべり、よく笑いました。どこに苦労があるのだろうか、と思われるほどほがらかな一子さんが、この手紙を両親にあててまもなく自殺してしまったのです。いま考えれば、一子さんの天真らんまんとみえるほからかさは、悲しさを、せいいっぱいかくした彼女の演技だったのでしようか。
 中学校で部落の歴史はならったが、それだけだったのです。同和地区の子にとって、歴史がわかっただけではなんにもならないことなのです。なんといっても、教育のなかで差別からの解放の力をつけておくことがたいせつなわけです。

岡林さんは、曲のなかで「部落に生まれた そのことの どこが悪い なにがちがう」 と部落差別の不条理を訴えます。(歌詞はネットで検索を。中島一子さんの原文が詞の世界を肉づけてくれると思います。)

 

同世代の被差別部落出身の友人たちに聞くと、自分たちの心情に近くよく口ずさんだと言います。

しかし、社会が差別問題にナーバスな時代であったこともあり、2曲とも発売直後に「放送禁止歌」になりました。私は、教職に就くまでこれらの曲を知りませんでした。

 

 

 

2001年1月に行なわれた藤田正さん(音楽評論家)の講演を私が再構成したものの一部を紹介します。

 美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」から少しあとに、岡林信康さんの作品である「手紙」(1969年録音)も放送禁止になりました。 
 「手紙」や、同じく岡林さんの「チューリップのアップリケ」も、ある程度の年代の方であったらご存知ではないかと思いますけが、部落差別をテーマとした歌です。
 「手紙」は、深い仲となった「みつるさん」と「私」が結婚の約束をし、「みつるさん」はおじいさんから店を譲られることになります。でも、妻となる「私」が部落の娘であったことが分かり、「みつるさん」は店を継ぐことができなくなった。
 だから「私」は、身を引きます。
 岡林というミュージシャンは、デビュー当時から、分かりやすいメロディと歌詞で歌を作るのが実に上手な人でした。団結歌「友よ」などは、その代表例です。
 しんみりとうたわれる「手紙」にも、彼の個性がよく出ていると思います。
 私の意見を言わせてもらえば、こういう歌こそテレビでもラジオでもどんどん紹介するべきだと思うんです。
 「手紙」の歌詞は、部落の女性が差別と直面し身を引いてしまう歌です。確かにこの点については、解放運動を進める側から批判された歌でもありました。私には、歌は歌詞の内容を追うだけでは理解できないという持論がありますが、それよりも先に、歴史的に意義ある歌にちゃんとスポットライトが当たるようにしてから、批判なり評価なりをすべきだと思います。部落の結婚問題にしても未だに解決しておらず、ということは「手紙」の「文面」は今も「生きている」からです。
 これに関連して、私は複数の大手レコード会社の幹部に、どうしてメディアはこういった問題を嫌うのか、尋ねたことがあります。もっと積極的に、例えば過去のメッセージ・ソングをまとめたようなCDを出したらどうですか、とも聞きました。
 あるレコード会社の幹部は、放送禁止とか何とかというのは、まったくナンセンスだとはっきり言っています。
 しかし別の会社の幹部は、「話はよく分かる」がといった言葉が何度か続いて、そのあとがない。日本の文化の一翼をになう音楽ソフト会社の人として、とても残念な姿勢だと私は思いました。

 

 

「竹田の子守歌」は、被差別部落に伝わる「守り子唄」がもとになっています。

赤い鳥の歌で知られているのは、次のような歌詞です。

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
むこうに見えるは 親のうち

これは、1965年ごろ、尾上和彦さん(作曲家)が京都市伏見区竹田地区で採集した民謡を編曲したものです。曲名は「竹田の子守唄」となっていますが、歌詞も旋律も元歌とは違っています。森達也さんの『放送禁止歌』に元の詞が紹介されています。 

この子よう泣く守りをばいじる

守りも一日やせるやら
どしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ 背中の上で
守りも楽なし子も楽な
どうしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ おやすみなされ
親の御飯がすむまでは
どうしたいこりゃ きこえたか

ないてくれよな 背中の上で
守りがどんなと思われる
どうしたいこりゃ きこえたか

この子ようなく守りしょというたか
泣かぬ子でさえ 守りやいやや
どうしたいこりゃ きこえたか

寺の坊さん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこりゃ きこえたか

守りが憎いとて 破れ傘きせて
かわいがる子に 雨やかかる
どうしたいこりゃ きこえたか

来いよ来いよと こま物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこりゃ きこえたか

久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし
またも竹田のもんば飯
どうしたいこりゃ きこえたか

足が冷たい 足袋買うておくれ
お父さん帰ったら買うてはかす
どうしたいこりゃ きこえたか

カラス鳴く声 わしゃ 気にかかる
お父さん病気で寝てござる
どうしたいこりゃ きこえたか

盆が来かて 正月が来たて
難儀な親もちゃうれしない
どうしたいこりゃ きこえたか

見ても見飽きぬ お月とお日と
立てた鏡とわが親と
どうしたいこりゃ きこえたか

早よもいにたい あの在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
どしたいこりゃ きこえたか

 

この曲も放送禁止歌でした。

 

私が最初に勤務した小学校の校区にも、「守り子」を唄った曲がありました。歌詞の世界は「竹田」と共通しています。

 

 

さて、法に基づく同和対策事業が終わって間もなく20年。施策は一般事業のなかで引き継がれているのですが…。

「特措法」から50年。「チューリップのアップリケ」「手紙」から50年。

部落問題の今日的課題をどう考えますか?

「自己肯定感」(人権一般の教育)だけで解決できますか?

 

私は今なお「部落問題」固有の教育課題があり、それに資する教育活動が必要だと思います。