デジタル教科書時代の漢字練習
2035年、デジタル教科書が定着した教育現場。
それは「空想」であることに相違ありません。
手塚治虫はアトムの時代を、藤子F不二雄はドラえもんの時代をその目で見ることはありませんでした。
私は、80歳でその未来を目にすることになります。
手に取れるほどに近い未来です。
さて、2035年のある日。
私は学校帰りの子どもと親しくなり、宿題を見せてもらうことになりました。
驚くようなことがいっぱいあったのですが、とりわけ面白かったのが「漢字練習」です。
漢字練習と言えば、ひたすら繰り返し書いて覚えるというのがかつての常識でした。
「漢字ドリル」をノート1ページに何回も視写するなんて序の口で、漢字1字をノート1ページに(150字ノートなら150回)書かせる強者もいました。私はこういうのがあまり好きじゃなかったので、正しく1回写すというのが流儀でした。
その子の「漢字練習」は、そうした常識とはかけ離れたものでした。
教科書の指定されたページ(もちろんデジタル教科書です)を、そっくりそのままキーボードに入力していきます。
それは「視写」というものだろうと思いましたが、彼はこれが「漢字練習」だと言います。
私は彼の通っている学校へ出向き、担任の先生に話を伺いました。
先生は、こう話されました。
デジタル教科書になって、子どもたちの学びは劇的に変わりました。それを言葉で理解してもらうのは難しいですから、改めて授業を見に来てください。
結論から言いますと、子どもたちが鉛筆で字を書くということはほとんどありません。教科書がデジタルなら、学びもデジタルなのです。キーボードが「鉛筆」です。
漢字は、「読み」を正しく入力すれば、「書き」は変換キーがやってくれます。
子どもたちに求める力は、漢字を正しく読めることと正しく使えることです。そうした力を付けるには、テキストを正しく入力する練習が効果的なのです。
先生の話を聞きながら、私は長年続けている「天声人語」の視写のことを思いました。
「天声人語」は、「朝日新聞」の1面下段にあるコラムです。「天声人語」視写用ノートも売られています。私の場合は、パソコンのワープロソフトで同様のフォーマットを作成し、そこに入力していきます。厳密には「視写」ではなく「視打」です。
この「視打」が「漢字練習(漢字を正しく読め、正しく使える練習)」になるというのは、体験上その通りだと思います。
テキストを正しく入力するには、テキストに出てくる漢字を正しく読める必要があります。
入力して変換キーを押すと、漢字に変換してくれますが1つ目がお目当ての漢字でなければいくつもの「同音異義語」が出てきます。いくつもの候補から選ぶ作業は、文章のなかで漢字(熟語)を正しく使う力を養っていることになります。
ときにはテキストの漢字の読みが分からないこともあります。その場合は、別の読みを入力して漢字に変換します。これもまた「漢字力」です。
何年もこうした「視打」を続けていると、いつしか語彙も豊かになったように思います。
先生の話は続きます。
結果的に漢字そのものを覚えられれば、それに越したことはありません。社会に出ると、書けたほうが便利なことがまだまだあるからです。ですが、書けることを第一にはしません。そのことで救われる子がたくさんいるのです。
話は、「音読」にも及びました。
昔、音読練習と言えば、家の人に聞いてもらってサインや評価をしてもらうのが普通でした。家事で忙しい時間に結構負担だったと聞きます。
いまは、端末のテキストを見ながら、端末に向かって「音読」します。AIがそれを聞いていて、誤読や読み詰まりがあるとその部分をマーキングします。子どもは、マーキング箇所を繰り返し読むことで力をつけていきます。
私が教師を辞めて20年。
わずか20年です。
隔世の感があります。