デジタル教科書時代の学力
2035年の教室。
デジタル教科書は、教室風景と授業風景を一変させていました。
教室に一歩足を踏み入れると…
黒板がありません。白墨の筆記音もありません。
かつて黒板が設置されていた教室前面は、巨大な「モニター」に変わっていました。(私の時代の言葉としては「モニター」ですが、今はこの巨大な画面を何と呼んでいるのでしょう。)
そこに教科書が大きく映し出され、先生が専用の「ペン」で書き込みをしています。
2020年の秋、GIGAスクール構想ですべての子どもたちにデジタル端末が配布されたときのことを思い出します。当時、私は次のように書いていました。
それよりも気になるのは、「中途半端」な整備のありようです。
現段階の整備の完成形は、「1人1台の端末」と「高速通信網」までです。
その結果、教室はおよそ次のようになります。
まず、教室の前面には黒板があります。その脇に大型モニターが鎮座します。
教師は、黒板とチョークを使った指導をしつつ、必要に応じて小型端末を操作し大型モニターに映し出します。
子どもの机には、教科書とノートと筆箱と、さらにはドリルや資料集が乗っています。それに加えて、取扱注意、落下注意の端末が乗ります。
授業場面において、子どもは黒板に注目し、ときに大型モニターに注目することになります。視線の移動が大きいです。
この状況下で集中力を切らせる子どもがいます。
ノート、プリント、端末といった対象物の多さに対応しきれない子、整理できない子がいます。
「誰一人取り残すことのない、個別最適化された学びの実現」を標榜しながら、憂いを増大させる結果になりかねません。
「GIGAスクール構想」を本気ですすめるつもりがあるのなら、検討して欲しいことがあります。
紙の教科書の廃止です。「デジタル教科書も認める」ではなく、「デジタル教科書しか認めない」のです。物の煩雑さが解消されます。
教科書のデジタル化にあわせて、教室の黒板を撤去します。
前面の真ん中に大型モニターを据え、その左右は電子黒板になっています。少なくとも、モニターとシームレスな平面のホワイトボードであるべきです。教師にとっては、小型端末をのぞき込んだりすることなく授業が進行できる環境が提供されるべきです。こうした環境が整うことで、子どもの視線が落ち着きます。
子どもの机の上からアナログツールを原則として取り除きます。
デジタル端末がノートであり、プリントです。手書きペンの文字をファイリングしておけば、従来のノートと同様の使い方ができます。もちろん例外的にアナログツールを使うこともあるでしょうが。
現実の「GIGAスクール構想」はどこをめざすのでしょう、どこまで行くのでしょう。
いま、その幕が開きました。
15年前の「夢想」空間が、いま目の前に広がっているのです。
「黒板」が変われば、「ノート」も変わりました。
デジタル端末がノートになっています。
デジタル教科書が変えたのは、「風景」だけではありません。
学びの「質」をも一変させていたのです。
私は、訪れた教室でデジタル教科書時代の「学力」を垣間見ることができました。
以前の教育は覚えることを重視してきました。そして、テストで「知識の量」を問い、それを「学力」として評価していました。もちろんそれだけではありませんが、知識偏重の教育と言われながら脱却しきれなかったのです。
デジタル端末を常時手にしているこの時代、覚えていることの価値などほとんどありません。知識など検索機能を使えば瞬時に取り出せます。すべての子どもが巨大な図書館を持ち歩いているのです。
授業で教えていたのは「知識」ではなく、「知識の取り出し方」、「知識の信頼性の確保」、「知識を活用する際のルール」といったことに関するものでした。
6年生の教室では、社会科で江戸時代の学習をしていました。
「江戸時代が265年も続いたのは素晴らしい時代だったからである。この主張に対するあなたの意見を、考えのもとになった根拠を示してまとめましょう」
いくつかのテーマから各自が選択して、調べたことをまとめます。
意見を持ち寄って、グループで討論するのがその日の内容でした。
賛成派の子は、文化の発展、米の生産高の増加などを取り上げていました。
それに対して反対派の子は、身分制度や、百姓一揆などを取り上げていました。
結論などありません。
各自のテーマに沿って資料を見つけ、信頼性を担保した上で必要な情報を取り出して、論理的に自分の意見をまとめます。そしてそれを発信します。
その一連の過程が学びであり、デジタル教科書時代の学力なのです。
訪問した学校を出ると、そこは2021年2月の街でした。
さあ、これから15年。デジタル教科書時代の幕が開け、どんな歩みを残しつつ2035年を迎えるのでしょうか。