教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(その100) ことわざ「我が身をつねって人の痛さを知れ」

小学校3・4年生の教科書に登場することわざの第27回は「我が身をつねって人の痛さを知れ」です。教科書の表記は、「わが身をつねって人のいたさを知れ」となっています。

 

我が身をつねって人の痛さを知れ

 

「我が身をつねって人の痛さを知れ」の読み方

 わがみをつねってひとのいたさをしれ

 

「我が身をつねって人の痛さを知れ」の意味

何事も自分の身に引きくらべて、他人についても思いやれ。(広辞苑

 

「我が身をつねって人の痛さを知れ」の使い方

どうしたら他人の心の痛みがわかる人間になれるのでしょうか。答えは、自分が痛みを経験し、そこから思いやりの心を育てることにあります。「我が身をつねって、人の痛さを知れ」と母は口癖のようにいっていたものです。(渡辺和子『目に見えないけれど大切なもの』2000年) 

 

「我が身をつねって人の痛さを知れ」の語源・由来

「わが身をつねって人のいたさを知れ」の語源・由来については、はっきりとは分かりません。

鎌倉幕府で執権に次ぐ地位にあった北条重時(1198~1261)は、「極楽寺殿御消息」と呼ばれる家訓に、「女などのたとえに、身をつみて人のいたさをしると申もうす。本説ある事也」と書き遺しています。この「たとえ」はことわざのことで、「本説ある」は道理にかなっているということです。 かなり古くからあることわざのようです。

 

「我が身をつねって人の痛さを知れ」の蘊蓄

「わが身をつねって人のいたさを知れ」の類義語

己の欲せざる所は人に施すなかれ(おのれのほっせざるところはひとにほどこすなかれ)…自分を相手の立場に置いてみて、してほしくないと感じることはしてはならない、という教え。

「己の欲せざる所は人に施すなかれ」の出典は『論語』です。

顔淵第十二 2 仲弓問仁章
仲弓問仁。子曰。出門如見大賓。使民如承大祭。己所不欲。勿施於人。在邦無怨。在家無怨。仲弓曰。雍雖不敏。請事斯語矣。

【読み下し文】
仲弓(ちゅうきゅう)、仁(じん)を問う。子曰く、門を出(い)でては大賓たいひん)を見るがごとくし、民(たみ)を使うには大祭(たいさい)を承(う)くるがごとくす。己の欲せざる所は、人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ。邦(くに)に在(あ)りても怨(うら)み無く、家に在りても怨(うら)み無し、と。仲弓(ちゅうきゅう)曰く、雍(よう)、不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う斯(こ)の語を事とせん、と。

【現代語訳】
仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「門を出て社会の人と交わる時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宗廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行なってはならない。もしそれだけのことができたら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことができるだろう」
仲弓がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます」(下村湖人『現代訳論語』)

 

衛霊公第十五 23 子貢問曰有一言而可以終身行之者乎章
子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人

【読み下し文】
子貢(しこう)、問いて曰く、一言(いちげん)にして以(もっ)て終身(しゅうしん)之(これ)を行うべき者有(あ)りや。子曰く、其(そ)れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ

【現代語訳】
子貢がたずねた。――
「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか」
先師がこたえられた。――
「それは恕(じょ=おもいやり)だろうかな。自分にされたくないことを人に対して行なわない、というのがそれだ」(下村湖人『現代訳論語』)