司馬遼太郎という呪縛
司馬遼太郎さんほどすばらしい歴史小説作家はいない、と私は思っています。
と同時に、司馬遼太郎さんほど困った歴史小説作家はいない、とも感じています。
何と言っても、司馬さんの文章は圧倒的に面白いのです。読者を引き込み、「その気」にさせます。ですから、没後25年経ってなお人気があるのも頷けます。
司馬さんは小説家です。したがって、その文章は基本的にフィクションです。
歴史小説における「フィクション」には2つあります。
1つは、「幕末」という時代背景だけを生かしたり、「坂本竜馬」という実在の人物名だけを生かして、話の展開はほぼ(あるいはまるごと)フィクションで描いているもの。一般に「時代小説」という言い方がされます。たとえば「水戸黄門」なんかがその代表作です。
もう1つは、歴史の一次史料に基づいて話の骨組みを作り(ときに「ノンフィクション」に近いことも)、細部をフィクションとして描いているもの。『竜馬がゆく』はじめ、司馬作品はその代表格です。NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」(1968年)や「龍馬伝」(2010年)もここに含みます。
歴史の一次史料を歴史小説に使うと言っても、司馬さんの場合は同様の手法を用いる小説家とはその規模が桁違いでした。ある小説の構想段階で、関係史料を古書店からトラック1台分買い集めたなどという話が残っています。それは、量においても質においても、歴史研究者をも圧倒するものでした。
つまり、司馬さんの書き物は限りなく「史実」に近いということになります。そして、話題の中に史料を織り込む一流の手法は、「史実」そのものとの錯覚を生みます。さらに司馬さんは作中で歴史への評価も書くのですが、これもまた読者を同じ立ち位置に誘(いざな)います。
しかし、司馬さんの書き物は「研究論文」ではなく、「小説」です。膨大な史料の中で取り上げられなかったものもあれば、過小評価されたものもあります。ときにはあえて史実と違(たが)えることもあります。さらに、ありありとした場面描写や会話などは、基本的に創作です。(対比して、半藤一利さんの書き物はちょっと様子が違います。半藤さんは「歴史探偵」として史実を大衆にわかりやすく伝えるために、史料のすき間を埋める会話を挿んでいるのだと捉えています。小説の「展開」や「受け」のための創作とは異なります。)
司馬さんの小説を読んでいると、そんなすべてが史実に思えてくるのです。活字ですらそんなですから、映像となるとさらにそうです。「竜馬がゆく」の北大路欣也さんや「龍馬伝」の福山雅治さんが、坂本竜馬その人に思えてきます。福山さんのセリフが史実としての竜馬の会話に思えてきます。
その影響力が絶大なるがゆえに「所詮は小説」と座視できず、「司馬史観」なる言葉ができて研究・評価の対象にもなっています。司馬ファンの私とて、明治以降の歴史観には異論があるし、小説の手法にも違和感を持つところもあります。『司馬遼太郎が描かなかった幕末 ーー松陰・龍馬、晋作の実像』(一坂太郎、集英社新書2013年)を読んだのは退職間近でしたが、それは自分の歴史への向き合い方を問う1冊でした。
司馬遼太郎さんほどすばらしい歴史小説作家はいないと、いまも思います。
しかし、私の中に像を成しているのは坂本竜馬ではなく、「司馬竜馬」なのかもしれません。「司馬竜馬」という虚像をあたかも「坂本竜馬」の実像と思い込んでいるのかもしれません。だから、司馬遼太郎さんほど困った歴史小説作家はいないのです。
歴史に興味を持つ、娯楽として歴史を題材にした小説を読むということと、歴史を教えるということとは区別して考えなければなりません。小説で得た知識や人物像は、そのまま歴史学習の具にはなりません。そうと分かりつつも、司馬遼太郎という呪縛のなかで歴史を語っていたような……。