教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

歴史教育の周辺(その5) 歴史の色

歴史の色

 

忘れもしません。

遠い昔、大学入学試験で日本史を選択しました。その問題の1つに、「冠位十二階の色を答えよ」というのがありました。

私は覚えていませんでした。ど忘れではなく、記憶した記憶がありませんでした。後で参考書を見ると、欄外の脚注に6色が載っていました。

「しまった」とは全く思いませんでした。「他にもっと大事なことがあるだろ」と、毒づいたものです。記憶の糸をたどると、どうやら「紫」を答えさせたかったようです。

ビジュアルの時代だからでしょうか、それとも聖徳太子が一層偉くなったのでしょうか。いまでは小学校の参考書にも、カラーで6色の冠が載っています。

 

「紫」は特別にして高貴な色

 

「冠位十二階」の話です。

「冠位十二階」は、推古 11 (603) 年聖徳太子が制定した日本で最初の位階制度です。

冠の色によって階級を表わしました。

徳、仁、礼、信、義、智の6徳目を、それぞれ大小の2つに分けて 12階とし、これに紫、青、赤、黄、白、黒の色をあて、その濃淡によって大小を区別しました。

 

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一般には上のように説明されているのですが、異論もあるようなのです。

Wikipedia」の記事です。

冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない。五行五色説をもっとも有力なものとして様々な推定説が唱えられていたが、どれも確証はない。
徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する五色であろうとされており、それに従えば仁が青、礼が赤、信が黄、義が白、智が黒となる。江戸時代の国学者谷川士清は大小を濃淡で分けたが、それは後の制度からの類推である。
五行説の難点は、義の白にある。白は古代日本で尊貴な色とされており、後の大宝令(701年)では天皇だけの衣色と定められた。大宝令以前の天皇の色については不明だが、七色十三階冠から冠位四十八階までの諸制度で白が冠位の色、つまり皇族臣下の色として使われた形跡がない。大義・小義のような下級の色に使われたか疑問が残る。

 

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有力とされる「五行五色説」によると、「徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する五色」です。

五行説」については後ほど触れますが、律令制のころの日本は中国発祥のこの説の影響を色濃く受けていたことは確かです。問題は、最上位に置かれた「五行説」に出てこない「紫」です。

 

「紫」という色には、どんな意味があるのでしょう。

飛鳥時代の政治・宗教・生活ナビ」のホームページに、興味深い記事がありました。

飛鳥時代で「紫」が高貴な色とされた理由とは?

「紫」と「冠位十二階」との関係
聖徳太子が紫という色を冠位十二階で最高位としたのは、中国からの影響が大きいとされています。
そして中国が紫を最高位としたのは、ギリシャやローマの影響なのです。
日本では603年に制定された冠位十二階が「紫色」の最初の出自とされており、濃い紫が最も高貴な色とされました。
この後に制定された冠位十三階では、明確に紫が最高位の色と記されており、その後様々な色順位の変遷があるにもかかわらず、紫は常に高位の色とされてきました。
そして奈良時代平安時代になると、紫は天皇や朝廷の高官の色として「禁色」とされ、他の者は使用できませんでした。

 

なぜギリシャでは紫が高貴な色とされたのか
日本では紫という色を出すには、ムラサキという植物の根を粉末状にして湯に溶かし、何度も浸すという工程を繰り返しも行うため、濃い紫の色を出すには時間と技術が必要でした。
そして古代ギリシャの時代には、紫の染料は地中海で採れる巻貝から作り出されていました。
この巻貝は「アッキガイ」というグループにふくまれるもので、この貝から出される分泌物は白色なのですが、日光に晒すことによって紫色に変化するという特徴を持っています。
そしてこの分泌液が採れる量は極めて少なく、1gの染料をとるために数千匹の貝が必要となるため、非常に貴重で高価なものでした。
当時この貝は「purpura(プルプラ)」と呼ばれており、ムラサキを意味する「purple(パープル)」の語源となっているとされています。
この貴重で美しい紫は歴代のローマ皇帝に愛され、自分以外がこの紫を纏うのを禁じたとも伝えられています。
英語には現在でも「born in the purple」という表現があり、これは「王家の生まれ」といった意味で使われています。
  
紫の特殊な染色方法
紫という色は、日本だけではなく洋の東西を問わず高貴な色とされていました。
日本ではこの紫という色を出すためには、ムラサキという植物の根を使って染色するのですが、そのためには難しい技術が必要でした。
紫根に含まれる色素を出すには、10以上もの工程を経た染色作業が必要とされ、また紫根を大量に使用する必要がありました。
この色素の特殊性からくる、複雑で手間のかかる作業、そして他に紫色に染める材料がなかったことから、紫は特権階級のみの色となった理由の一つと考えられます。

 

なかなか奥が深いです。

 

さて、「五行五色説」に出てくる「五行説」について、もう少し掘り下げましょう。

 

春は青、ああ青春

 

五行説」とは何でしょう。

「精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典」から引きます。

五行説ごぎょう‐せつ  
〔名〕 中国で、万象の生成変化を説明するための理論。宇宙間には木火土金水によって象徴される五気がはびこっており、万物は五気のうちのいずれかのはたらきによって生じ、また、万象の変化は五気の勢力の交替循環によって起こるとする。
(中略)
中国、戦国時代中期の騶衍(すうえん)が、歴代王朝の交替を相勝の理で解いたことに始まり、季節、方角、色、臭から人の道徳に至るまで、あらゆる事象を五行のどれかに配するようになった。特に、木火金水には、方角では東南西北、色では青朱白玄、季節では春夏秋冬が、さらに四獣(四神)の青龍・朱雀・白虎・玄武が配された。漢代になると陰陽説と結合し、暦法、医学などにも取り入れられて、長く中国人の公私の生活を拘束することとなった。五行の説。→陰陽五行説

 

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東の「青龍」、南の「朱雀」、西の「白虎」、北の「玄武」という「四神」は、奈良県明日香村・キトラ古墳の壁画に描かれていました。キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られています。

平城京跡に復元された「朱雀門」は、大極殿の南にある平城宮の正門です。

 

「四方」と「四色」の関係は、たとえば現代の相撲の土俵に残っています。

土俵の上に吊り屋根があります。その四隅から「房(ふさ)」が下げられています。 

正面の東寄りに青房、西寄りに黒房、向正面の東寄りに赤房、西寄りに白房が下げられ、それぞれ四季と四神を表しています。

 

「四季」と「四色」の関係は、人生に例えて使われてきました。

「春」「青」 → 青春

「夏」「赤」 → 朱夏

「秋」「白」 → 白秋

「冬」「黒」 → 玄冬

「青春」は、あまりにも有名。春の若葉の青(昔の「青」には「緑」も含むことが多いです)と、人生における「青春」時代。例えとして傑作です。

「白秋」は、北原白秋ペンネームの由来になっています。本名は「隆吉」。

「玄冬」はいかにも人生の晩期という感じですが、「玄冬小説」が市民権を得るほどに老年が元気な時代です。ちなみに、「白秋」と「玄冬」の区切りは60歳に置く人もあれば、65歳もあり、75歳もあります。私なんかは「灰晩秋」もしくは「灰初冬」あたりですかね。

 

「紫」も、「五行五色」も、いまに生きる歴史の色です。