教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月13日

4月13日 平城遷都

 

710年4月13日(旧暦では和銅3年3月10日)、元明天皇藤原京から平城京に遷都しました。

 

奇しくも744年4月13日(旧暦では天平16年2月26日)、聖武天皇恭仁京から難波京に遷都しています。

740年、聖武天皇平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都しました。しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮大阪市)、翌745年には紫香楽宮滋賀県甲賀市)に都を移しました。同年には都を再び平城宮に戻します。

 

「遷都」が行われる一番の理由は、現状打破にあります。何とかしたい「現状」は、勢力争いであったり、疫病流行であったりします。740年~745年に繰り返される遷都は何を意味するのでしょう。ちなみに、743年の大仏建立の詔は紫香楽宮で出されています。大仏建立の目的は、仏の恵みを受け国家を安定させることにありました。

 

続日本紀』にある「平城遷都の詔」(708年)は次のようなものです。

朕祇奉上玄,君臨宇内,以菲薄之徳,処紫宮之尊,常以為,作之者労,居之者逸,遷都之事,必(心)未逞也,而王公臣威言,往古已降,至干近代,揆日謄星,起宮室之基,卜世相土,建帝皇之邑,定易斤之基永固,無窮之業斯在,衆議難忍,詞情深切,然則京師者,百官之府,四海所帰,唯朕一人,堂独逸豫,筍利於物,其可遠乎,昔段王五遷,受中興之号,周后三定,致太平之称,安以遷其久安宅,方今平城之地,四禽叶図,三山作鎮,亀笙並従,宜建都邑,其営構資,須随事条奏,亦待秋収後,令造路橋,子来之義勿致労擾,制度之宜,令後不加,

 

 朕(われ)祗(つつし)みて上玄に奉(うけたまわ)りて、宇内(あめのした)に君とし 臨み、菲薄(ひはく)の徳を以(もち)て、紫宮の尊きに処(お)れり。常に以為(おもえ)らく、之を作(な)す者は労し、之に居る者は逸す、と。遷都のこと、心はいまだ遑(いとま)あらざるなり。しかるに王公大臣咸(みな)言(もう)さく、往古(いにしえ)より已降(このかた)、近き代(よ)に至るまで、 日を揆(はか)り星を瞻(み)て、宮室の基を起こし、世を卜し土を相(み)て、帝皇(みかど)の邑(さと)を建つ。定(ていてい)の基永く固く、無窮の 業(わざ)ここに在り、と。衆議忍びがたく、詞情深く切なり。然らば則ち京師は、百官の府にして、四海の帰する所なり。ただ朕一人、あに独り逸予せむや。苟(いやし)くも物に利あらば、それ違ふべけむ や。
 昔殷王(いんおう)五たび遷(うつ)して中興の号を受け、周后三たび定めて太平の称を致しき。安んじてもてその久安の宅を遷せるなり。方今(いま)平城の地は、四禽図(と)に叶ひ、三山鎮を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ひぬ。宜しく都邑を建つべし。その営構の資は、すべからく事に随ひて条奏すべし。また秋の収を待ちて後に、路橋を造らしめて、子来の義は労擾(ろうじょう)を致すことなく、制度の宜は、後を して加へざらしめよ。

                               (広辞苑

「この平城の地は、四方を神に囲まれて三山が後ろに鎮座している。それは非常に都をつくるのに条件が揃っているので、都を建てるのだ」と、地の利は説いていますが、なぜ遷都するかについては明言していません。公にできない事情が、遷都の本当の理由だったのでしょう。