教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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世界遺産学習 法隆寺(その3)いかるがの里のいかるが寺

いかるがの里のいかるが寺

 

法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にあります。

斑鳩」は「いかるが」と読みます。(ふつうの漢字の知識では読めませんが)

 

デジタル大辞泉」から引きます。

いかるが【斑鳩
【一】奈良県北西部、生駒郡の地名。かつてイカルが群居していたという。法隆寺中宮寺法輪寺などがあり、仏教の中心地であった。

【二】イカルの別名。《季 夏》「豆粟に来て—や隣畑/青々」

いかる【斑=鳩/×鵤】
アトリ科の鳥。全長23センチくらい。体は灰色で、頭・風切り羽・尾羽は紺色。くちばしは太く黄色。木の実を食べる。さえずりは「お菊二十四」などと聞きなされ、「月日星(つきひほし)」とも聞こえるところから三光鳥ともいう。東アジアに分布。まめまわし。いかるが。《季 夏》「—来て起きよ佳き日ぞと鳴きにけり/秋桜子」

[補説] 「鵤」は国字。

イカルの写真です。(「鳥の図鑑」より)

 

 

「tenki.jp」に掲載されている「斑鳩はなぜ『いかるが』なのか?古代ミステリー、七十二候『霜止出苗(しもやみてなえいずる)』」(ホシナコウヤ 2019年04月25日)の記事によると、「いかるが」と物部氏の関係が浮かんできます。

「いかるが」という地名は実は奈良の法隆寺近辺だけではありません。表記文字は皚酵または哮峯で「いかるが」。大阪府北河内の交野市・星田の哮が峯(たけるがみね)地域は、古くは「いかるが」とも呼ばれていました。物部氏氏神ニギハヤヒを祀る磐船神社に向かう道程の天野川には皚酵橋(いかるがばし)という橋もかかり、一帯の古い地名であったことがわかります。この地域は古族・物部氏の領地で、この地にニギハヤヒが「天の磐舟」にのり降臨したという伝説があります。奈良の斑鳩もかつては物部の領地で、「いかるが」と名づけられた地域だったのです。

 

このことは、大きな意味を持っています。

 

厩戸王の父、用明天皇は585年に即位し、2年後の587年に病死しています。

この時の大連が物部守屋で、大臣が蘇我馬子でした。

用明天皇の死後、物部氏蘇我氏が激突します。権力争いです。ちなみに、蘇我氏用明天皇が進めようとしていた崇仏派で、対する物部氏神道の排仏派です。

両氏の戦いは蘇我氏の勝利に終わり、「いかるが」も蘇我氏の勢力下に置かれます。

 

593年に推古天皇が即位します。

そして、対物部氏との戦いに功のあった蘇我馬子が「あすか」に、厩戸王が「いかるが」に寺を建てることになります。飛鳥寺は596年、「いかるが」寺は607年の創建です。(厩戸王は戦いのあった587年当時、14歳でした)

 

寺の名前は、飛鳥の「飛鳥寺」のように地名からとることが普通でした。

「いかるが」に建てられた寺が「いかるが寺」です。漢字では「鵤寺」と書きます。「いかるでら」と読んだようです。「鵤」は鳥の「イカル」のことです。

この漢字表記については、2014年に法隆寺補修工事で北室院の庫裏下から「鵤寺」と墨書きされた土器が出土したことにより証明されました。

法隆寺旧境内で見つかった、奈良時代前半ごろの土器に墨書きされた「鵤寺」の文字=2014.7.18 奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館)

 

奈良時代前半には「鵤(いかる)寺」は、日本書紀が編纂されるころには「斑鳩(いかるが)寺」と表記されるようになります。

先に紹介したホシナコウヤ氏の推論です。

ここ(注 「いかるが」を指します)に後に、蘇我vs物部の戦争に打ち勝った蘇我氏系の聖徳太子法隆寺を打ち建てます。聖徳太子、そしてその側近の秦河勝(秦氏)を象徴するトーテム(動物霊)こそハトでした。中国のキリスト教宗派・景教と同根の原始キリスト教シルクロードを経て新羅系の渡来民・秦氏によって日本に伝わり、新羅系仏教と同化しつつ、聖徳太子厩戸皇子神話として定着しました。

(中略)
もともと「いかるが」と呼ばれていたち地域に聖徳太子が宮を立て、法隆寺を興した。地名にあやかり、この寺を推古期には「鵤(いかる)寺」と呼びならわしていたが、日本書紀編纂の平城京時代になると、聖徳太子/秦河勝=鳩の連想から「斑鳩」の字があてられて、こちらが一般的になっていった、ということなのでしょう。

 

同氏は、引用文の前段で「斑鳩(まだらばと)」についても言及しています。

斑鳩」。普通に読めば「まだらばと」ですが、なぜか読みは「いかるが」です。あの法隆寺のある奈良県生駒郡の地域一帯の地名が斑鳩(いかるが)なのはご存知のとおり。一説では、聖徳太子(蘇我善徳)が推古天皇9(601)年に築いた宮殿の地域一帯にアトリ科のイカル(Eophona personata)、またはジュズカケバト(シラコバト)が多く見られたため、「いかるが」と名がついた、という解説がまことしやかにされますが、これは順序がまったく逆です。
イカルの説明は後回しにしますが、シラコバト=斑鳩という説が何故出てきたかについてまずは説明しましょう。
シラコバトには「斑=まだら」と呼べるような模様はありません。にもかかわらず、斑鳩=シラコバトとされるのは、「ジュズカケ」のほうに原因があります。ユーラシア大陸や台湾に広く分布し、日本でのキジバトのようによく見かけるハトがいます。このハトは中国名が珠頸斑鳩(ジュズカケマダラバト Streptopelia chinensis)。和名ではカノコバト(鹿の子鳩)という名前がついています。シラコバトキジバトをあわせて二で割ったような体色。そして頚部に、襟巻きのような大きな黒いポイントカラーがあり、この黒地に、真っ白な水玉模様、つまり斑が入るのです。「斑鳩」とは正真正銘、このカノコバト(ジュズカケマダラバト)のことなのです。ところがこのハトがいない日本では、かつては普通に見られたシラコバトが「ジュズカケ」といわれる首の黒い模様が共通することから、ジュズカケマダラバトのことだと勘違いされたのです。こうして、斑鳩=シラコバトということになってしまったのでした。

 

ちなみに、平安末期の治承年間(1177~81年)頃の「伊呂波字類抄」(橘忠兼)では、法隆寺について「斑鳩寺」の記載が見られますが、これは分類では「ハ」の項目に入り、当時は斑鳩を「はんきゅう」と読んでいたらしいこともわかっています。

 

奈良時代の後半あたりから、寺名を中国風に表記するようになります。

「鵤寺(斑鳩寺)」の中国風の名前が「法隆寺」です。

同じく、「飛鳥寺」は「法興寺」で、平城遷都に伴い奈良に移って「元興寺」となります。

元興寺」と同様に平城遷都に伴い奈良に移った「興福寺」は、もとは京都・山階にあって「山階寺(やましなでら)」と呼ばれていました。

 

いかるがの里に厩戸王が創建した寺が「鵤寺(斑鳩寺)」です。

もっとも寺の建造が始まった600年ごろ、厩戸王は20代後半です。果たして厩戸王が中心を担っていたのか、それとも推古天皇が中心であったのか……。