教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

世界遺産学習 法隆寺(その8)心柱①

心柱①

 

五重塔のルーツがインドのストゥーパにあることは前々回に述べました。

 

ストゥーパは、仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るための塔です。

 

法隆寺五重塔も、仏舎利を納めるために建てられました。その仏舎利は、心柱(しんばしら)の下にあります。

心柱は基壇の下に埋め込まれており、仏舎利はその下にあるわけですから、直接目にすることはできません。

「大和法隆寺五重塔 大和若草伽藍心礎 大和富貴寺塔残欠(大和法隆寺塔堂)」の記事を引用し、紹介します。

★大和法隆寺五重塔心礎

○「新・法隆寺物語」 より
 「大正15年、関野貞法隆寺非再建論者)の依頼で、心礎の調査を行う。
奈良県修理技師(岸熊吉)が塔の須弥檀下に入り、心柱の下に空洞(腐食による)を発見。空洞は径約1m深さ2mで、その下に心礎があり、中央に銅製の蓋があった。
このことは法隆寺住職佐伯定胤に報告され、親しい学者と共に「密か」に発掘された。
銅蓋の下の舎利孔には清澄な水が満ちていて、そこに径15cmほどの銅の合金の碗が浮いていた。その中には金銅製の壷があり、鏡が立て掛けてあった。壷は取り出し本坊に安置した。
金銅製の壷の中に銀の容器があり、さらにその中に純金の容器があり、ガラスの瓶が入っていて、瓶には瑠璃玉、真珠、水晶などが納められていた。これらはスケッチされ、拓本が採られ、写真撮影された。(記録された。)
舎利容器は当日日没後、元の塔に下に納められた。(口外無用であったが、いつしか公然の秘密となる。)
 昭和24年五重塔解体修理にあたり、舎利容器は再び取り出される。
舎利容器は外から、佐波理碗、金銅合子、銀製容器、金製容器、中央にガラス製舎利瓶があり、佐波理碗と金銅合子の間に海獣葡萄鏡が立て掛けてあった。海獣葡萄鏡は径10.1cmで、表裏とも銀金で、表面は鈍く顔が映った。裏面の海獣・葡萄唐草は優れたもので、唐製であろうとされる。
その後、保存上の理由で、舎利容器は特注のガラス容器に入れられ、舎利孔に戻され、空洞はコンクリートで固められ、その上に心礎が建てられた。それ故、塔を解体しない限り、陽の眼を見ることはないであろう。
調査報告書は500部限定出版(昭和29年)されたが、秘宝の尊厳の保持のため、複写転載は禁じられているという。
  法隆寺五重塔舎利安置状況:「新・法隆寺物語」 より


2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
舎利埋納孔は径9寸2分(28cm)深さ1寸3分(4cm)の蓋受孔の下に径7寸5分(23cm)深さ8寸(24cm)の構造であった。
舎利容器は外から響銅大碗、鍍金響銅宝珠紐合子、卵形透彫銀容器、卵形透彫金容器、銀栓ガラス瓶の入子の構造であった。
大碗には海獣葡萄鏡(径3寸3分4厘)、ガラス玉、真珠、水晶片、瑠璃片が多数納入されていた。
鍍金響銅宝珠紐合子には四方に銀の鎖を架ける、ここには卵形透彫銀容器のほかガラス玉、真珠、象牙管玉、水晶片、方解石片、瑠璃片があった。卵形透彫銀容器の高さは3寸2分(9.8cm)、金容器は2寸7分2厘(8.2cm)を測る。ガラス瓶は濃緑色を呈する。
 五重塔舎利埋納状況     五重塔出土舎利容器:模造品     五重塔舎利容器ガラス瓶・銀栓


2015/02/27追加:
「日本の美術№77 塔」石田茂作編、至文堂、昭和47年 より
五重塔は中心の地下に大礎石を据え、そこに心柱を掘立柱にようにまず建てる。
心礎は地下10尺のところにあり、そこに銅板を蓋した円孔があり、そこには舎利容器が埋納されていた。


法隆寺五重塔心礎空洞実測図

Aは心柱
Bの点線は柱底のえぐれ
CC1C2は三角形の口の一辺をなす石
DD1は他の一辺
Eは当初よりの空洞
Fの点線以下は埋没土
Gは細く掘った穴
Hは一個の石、スパン不明
Iは銅板
Jのここに何かが入っていると思われる。
 
一具の舎利容器に砂張の大椀の中に蓋椀と葡萄鏡とが置かれ、その周りに香薬珠玉が詰められていた。
蓋椀を取り出し、それを封した鎖を外し蓋を開くと、中から卵形銀製透彫の盆が現れた。
銀盆は蝶番で縦に割れるようになっていたので、それを開くと、同形にしてやや小振りの透彫の純金盆が現れたので、それをまた縦に割ると、中に緑色硝子の小瓶があり、それには純金の蓋がしてある。
瓶の中は点検が許されなかったが、仏舎利が納置されていたはずである。

法隆寺五重塔心礎出土舎利容器
外側から、
砂張大椀・
鎖で結んだ蓋椀・
銀透彫合子・
金透彫合子・
瑠璃壷・
大椀と蓋椀の間に海獣葡萄鏡

 

「ライフジェム」掲載の記事によると、舎利容器に納められているのはダイヤモンドだということです。

法隆寺五重塔の心礎に納められた仏舎利は、実はダイヤモンド(金剛石)であるという話があります。

五重塔入門』(新潮社)の中で、著者の一人である建築史家の藤森照信氏は、「実際に収まっていたのはダイヤモンド(金剛石)だったと、心礎をはじめて発掘調査した関野貞のご子息の関野克先生から聞いたことがある」と述べているのです。

 

関野貞は建築史学者で建築家であり、東京帝国大学名誉教授を務めた人です。

『新・法隆寺物語』太田信隆著(集英社文庫)によると、関根教授による発掘調査は次のようなものでした。

当時、白熱していた法隆寺再建論/非再建論の中で(関野貞は非再建論)、大正15年、心礎の調査を行うことになり、奈良県の修理技師が五重塔の須弥檀の下に入り、心柱の下に腐食による空洞を発見しました。

空洞は径約1m深さ2mで、その下に心礎があり、中央に銅製の蓋がありました。

銅蓋の下の舎利孔にはきれいな水が満ちていて、そこに直径15㎝ほどの銅合金の碗が浮いていました。その中に金銅製の壷があり、鏡が立て掛けてありました。

壷の中には銀の容器があり、さらにその中に純金の容器があり、ガラスの瓶が入っていて、瓶には瑠璃玉、真珠、水晶などが納められていたといいます。

当時、この調査に関わったのは法隆寺住職と関野貞らごくわずかの研究者だったといいます。そして、舎利容器はその日の日没後、元の塔に下に納められました。

 

法隆寺五重塔の一層目を外側の小窓からのぞき込むと、塑像群が見えます。心柱は塑像群の内側にあって、見ることはできません。

つまり、塔建造の目的である仏舎利も塔の中心である心柱も直接目にすることはできないということです。