教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 6月1日

気象記念日

 

気象記念日は、1875年(明治8年)6月1日に気象庁の前身である東京気象台において業務を開始したことを記念して、1942年(昭和17年)に制定されました。

 

1875年(明治8年)のこの日、東京・赤坂葵町に、日本初の気象台「東京気象台」が設置され、東京で気象と地震の観測が開始された。1887年(明治20年)に「中央気象台」と名前を変え、1956年(昭和31年)に「気象庁」として運輸省(現在の国土交通省)の外局となった。また、1884年のこの日、日本で最初の天気予報が出された。その予報は「全国一般風の向きは定まりなし、天気は変り易し、但し雨天勝ち」という非常に曖昧なものだった。気象庁ではこの日に記念式典を実施している。

                        (『雑学ネタ帳』HPより)

 

気象庁HPの平成 15 年 5 月 20 日「気象記念日について」報道発表資料に、詳細が記されています。
                    

気象業務の歴史


1 御雇外人からの気象観測の建議
 明治政府は、明治4(1871)年7月工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めましたが、測量師長はイギリス人のマクビーン(C.A.McVean: 明治元年灯台建設のため来日、明治4年に工部省測量司に移る)で、測量助師はイギリス人ジョイネル(H.B.Joyner: 明治3年に京浜間鉄道布設のために来日、明治4年に工部省測量司に移る)でした。このジョイネルが気象観測の必要性を建議し、明治6年5月工部省測量司は気象台を設けることを決めて、ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼しました。マクビーン自身も測量器械購入と測量技師招へいのため、測量正河野通信随行して渡英しました。マクビーンはフランスからイギリスに帰化したシャーボー(H.Scharbau)の日本招へいに成功し、そのシャーボーに気象器械の調達を依頼しました。シャーボーは 15か月間にわたりイギリスで各種器械の購入にあたり、明治7年7月それらの器械を携えて来日しました。シャーボーは「日本は地震が多いと聞いたが、測点が移動しては困る。日本で測量をするにはまず地震観測が必要だ。」と考え、イタリア製の地震計を気象器械とともに持参しました。


2 気象器械・地震計の据付けと観測の開始
 明治8(1875)年5月これらの器械の据付けが完了しました。場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門2-10ホテルオークラのあたり)です。そして、同年6月から観測が開始されました。気象記念日はこれを記念したものです。当初は、御雇外人ジョイネルが一人で担当して1日3回の気象観測を行い、地震があれば土蔵の中の地震計まで飛んで行きました。間もなく、ジョイネルの要請により、同年9月から正戸豹之助(地上・山岳観測、通信等多方面で事業整備に尽力、のち中央気象台統計課長)、下野信之(のち大阪測候所長)、中條信倫(馬場と改姓、のち商船学校教授)、大塚信豊(地震・火山業務を経て、長崎測候所長)、武林貞次郎(のち長崎測候所長)らがジョイネルの伝習生となり、徐々に観測に加わりました。
 その後明治 10 年6月には、ジョイネルの満期解雇のあとをうけて正戸豹之助が観測主任になりました。
 なお、明治 16 年3月1日に東京気象台で初めて天気図を作成し毎日の印刷配布が、さらに翌 17 年6月1日には毎日3回の全国の天気予報の発表が開始されています。

 

3 組織の変遷
 気象観測を計画した工部省測量司は、明治7年1月に内務省に移管され同年8月には内務省地理寮量地課と改称されています。日本の気象事業は、工部省によって計画され、内務省によって実現されたことになります。
 明治8年6月1日、内務省地理寮量地課は東京気象台を設立し、中央気象台の基礎を作りました。
 その後、気象事業は明治 28(1895)年4月に内務省から文部省に移され、昭和 18(1943)年 11 月に運輸通信省、昭和 20(1945)年5月に運輸通信省運輸省逓信省に分かれたとき、運輸省所管となりました。
 東京気象台は、明治 20(1887)年1月に中央気象台と改称、昭和 31(1956)年7月に気象庁となりました。平成 13 年1月の中央省庁等の再編に伴い、気象庁国土交通省の外局として新たに業務を実施しております。

 

 

2022年5月31日の「天声人語」(朝日新聞)が、天気予報第1号に関する話題を取り上げています。引用して紹介します。

〈全国一般 風の向きは定まりなし 天気は変わりやすし ただし雨天がち〉。降ろうが吹こうが外れようのない予報文は1884(明治17)年6月1日の朝、発表された。わが国の天気予報第1号である▼書いたのは、明治政府のお雇い外国人クニッピング。プロイセン生まれの船乗りである。気象学を修めたことはない。来日中、乗ってきた商船がたまたま日本で売却され、誘われてドイツ語の教職に▼元々観測に興味があった。欧州のような暴風警報を出すべしとの進言が政府に採用され、気象台に移る。彼が出した日本初の警報は多くの船舶を海難から救った▼当初は警報だけを発表したが、「平時はサボってばかりか」と誤解も。難しさを承知で取り組んだのが天気予報だった。始めてみると懸念は的中。ある新聞は名指しで「外れすぎ」と批判した▼観測拠点が限られ、気象衛星など望むべくもない時代である。休日も祝日も出勤し、1日3回の観測と天気図の作成を欠かさなかった。嵐の前には深夜でも観測を続けた。46歳の春に契約切れで解雇。「指導8年、私は余分な者となった。この国に新しく必要なものを生み出すことができた」と回想録にある▼あす6月1日は気象記念日。1875(明治8)年のこの日、東京気象台が設置されたことにちなむ。その9年後の同じ日、冒頭で紹介した予報第1号が生まれた。慣れない異国の地での元船乗りの苦労を思えば、予報外れの雨に舌打ちする自分が小さく感じられる。