教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 9月25日

沢村栄治が日本プロ野球初のノーヒットノーランを達成

 

1936年9月25日、東京巨人軍沢村栄治投手が日本プロ野球初のノーヒットノーランを達成しました。

 

1936年は職業野球リーグ(プロ野球)が始まった年です。

Wikipedia」には次のように記されています。

9月25日の対大阪タイガース戦で中山武とのバッテリーでプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。タイガース側からノーヒットだけは恥ずかしいから、と何度も言われた中山は、6回頃から景浦将や小島利男らタイガースの打者に、「今度はストレート」「今度はドロップ」と球種を教えたが、それでも打てなかったという。

 

沢村栄治は、その年の日本プロ野球で最も活躍した完投型先発投手を対象として贈られる特別賞である「沢村賞」のもとになった人です。

日本のプロ野球草創期に3度のノーヒットノーランを記録した大投手です。しかし、生涯登板試合数は105、勝利数は63でしかありません。

沢村投手が最後に勝利したのは1941年、25歳のときです。

翌1942年には登板がなく、43年に4試合登板して3敗しています。27歳の年までの記録しかありません。

沢村栄治さんの生涯をたどります。

「九回裏:沢村栄治年譜」というHPと「Wikipedia」の記録を参考に作成しています。
1917(大正6)年
2月1日:三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で生まれる。

1934(昭和9)年 17歳
12月26日:職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が結成される 。入団。

1936(昭和11)年 19歳
7月11日-13日:職業野球連盟結成記念大阪大会が開かれ阪急軍が優勝。
9月25日:甲子園球場の対タイガース戦で職業野球初の無安打無得点

1937(昭和12)年 20歳
2月:徴兵検査に甲種合格。

1938(昭和13)年 21歳
1月10日:歩兵第33連隊(三重県津市)に入隊。
4月3日:広島港を出帆。
4月6日:上海に到着。
4月:軽機関銃射手として中華民国遼東半島から大別山麓に移動、武漢三鎮攻略戦に参加。
9月23日:左掌に貫通銃創の負傷。南京の病院に入院。

1939(昭和14)年 22歳
8月:内地に帰還。

1940(昭和15)年 23歳
1月:満期除隊。
6月3日:除隊後初登板。
7月6日:西宮球場の対名古屋軍戦で3度目の無安打無得点

1941(昭和16)年 24歳
10月8日:2度目の応召。
11月15日:フィリピン戦線に移動。

1943(昭和18)年 26歳
1月11日:2度目の復員。
3月:巨人軍主将となる。
7月6日:対阪神戦で生涯最後の登板。初回4与四球で押し出し1点、3回まで5点を失い降板。
10月24日:州崎球場での対阪神戦2-2で迎えた11回表1死1.2塁、6番青田昇の代打に出場。サードフライに倒れる。生涯最後の試合出場となる。
11月-翌1月:勤労動員で川西航空機製作所鳴尾工場にて二式大艇の組立作業に従事。

1944(昭和19)年 27歳
2月19日:読売、沢村を解雇。
10月2日:3度目の応召。
11月13日:第16師団(京都府伏見区)に入隊。
11月27日、輸送船で門司港を出発。
12月2日午前4時30分:陸軍兵長沢村栄治、台湾沖で戦死。享年27歳。

 

戦争の時代を生きた偉大な野球人の短すぎる一生は、戦争と平和の問題を考える教材でもあります。