「学力」というとき、そこには2つの顔があると思います。
わかりやすい言葉で表現すると、「テストの点数で測れる学力」と「テストでは測れない学力」です。
(異論もあるでしょうから、「私見では」と書き添えておきます。)
ここでは、「テストの点数で測れる学力」を「テスト学力」、「テストでは測れない学力」を「非テスト学力」と仮称することにします。
「テスト学力」は、「受験学力」という言い方もします。
大学受験、高校受験でより好成績を収めるに足る学力です。それは何も特別なものではなく、一般に「学力」と呼んでいるのがまさにこれです。
「非テスト学力」のことを短い言葉で説明するのは難しいですが、「人間力」とでもしておきましょう。
同和教育の時代、よく似た概念の「解放の学力」という言葉がありました。被差別(社会的弱者)という社会的立場の自覚を促すとともに、そこからの解放の力量としての学力形成をめざすといったようなものです。
1970~80年代には、2つの学力は二律背反的、二者択一的にとらえられることが多くありました。80年代後半~90年代に行われた多くの学力保障の取り組みにおいて、2つの学力は「車の両輪」として整理されていきます。
「解放の学力」は、大阪では「人権総合学習」として系統化されていきます。それは、文科省の当初の「生きる力」と重なるもので、2002年に始まる「総合的な学習の時間」には大阪の理念と実践が深く関わっています。
80年代後半~90年代に行われた多くの学力保障の取り組み、とりわけ学力向上の取り組みで注目したいのが、説明文読解の重視です。
従来の同和教育では、心田を耕す、心情を重ねる取り組みとして文学教材の読みに力を注いできました。
それがなぜ説明文に向かったのか、当時の私は深く理解していませんでした。今なら分かります。「論理力」を育てようとしていたのです。「解放の学力」の重要な要素として「論理力」を位置づけたということです。
さて、全国学力テストに戻ります。
全国学力テストが問うている学力は、「論理力」です。
私の学力論にしたがえば、全国学力テストが問うている学力は「非テスト学力」としても有意義だということになります。
しかし、全国学力テストは「人間解放の武器としての論理力」を育てることを目的としているわけではありません。
周知の通り、全国学力テストのきっかけは「PISAショック」にあります。
OECDが実施しているPISAテストが求めている学力は「論理力」です。その成績が、国際比較において振るわなかったわけです。
OECDを日本語にすると、「経済協力開発機構」です。教育機関ではありません。そもそもPISAテストは、変貌する社会のなかで優れた労働力として活躍するために必要な能力をどう育成するかという視点で設計されています。
全国学力テストが「PISA学力」を補完するものだとすれば、そして「優れた労働力として活躍するために必要な能力の育成」という目的を共有しているのであれば、それはかつての「テスト学力」と同根です。「従順で理解力に優れた労働者の育成」が、経済社会の変化に合わせて変更されただけのことです。
全国学力テストが問うている「論理力」は支持しつつも、それは「テスト学力」の一部でしかないことをあらためて強調しておきます。
そして「テスト学力」は、「非テスト学力」も含めた総合的な「学力」の中で意味づけられないと「車の両輪」にはなりません。
全国学力テストの事前対策に追われ、結果に一喜一憂している全国津々浦々の学校関係者の皆さん。立ち止まって考えるべきこと、やるべきことが山のようにありますよね。