教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

生活を綴る①

生活綴り方などと言うと、国語教育の範疇と思われるかもしれません。私にとっての生活綴り方は、学級通信とともに児童理解や学級集団づくりの重要なアイテムでした。「学級通信」や「生活綴り方」を「学級経営・集団づくり」のカテゴリーで取り上げているのはそのためです。

 

生活綴り方とPISA型学力


PISA型学力を強く意識した学習指導要領によって、国語科における「書く」活動も従来の作文とは様変わりしました。従来から系統的な作文指導と言うにはあまりにも不十分なものでしたが、今や見る影もありません。時代は、「論理的表現力」一色です。


PISA型学力というのは、論理的な「読む」「書く」力です。雑な表現ですが、情緒的な読み書きから、筋道だった読み書きへの転換と言ってもいいでしよう。

とりわけ「書く」活動では、自分なりの意見を持ち、それを分かりやすく発信することが求められています。「分かりやすく発信」するためには、論理的な(筋道だった)表現のスキルが要ります。「まず結論を書く。その後に理由を書く」といった類いのスキルです。

 

さて、分かりやすく発信ということに焦点が当てられがちですが、大事なことが抜けています。

それは、何を発信するかという「中身」の問題です。

“自分なりの”という言葉は、実に都合のいい言葉です。何だっていいのだという解釈さえ成り立ちます。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。


自分なりの意見を持ち」に注目してみましょう。

「意見を持ち」の前段には、テキストやグラフなどを正しく読み取るという作業があります。そのためのスキルも必要です。その上で、「自分なりの意見を持つ」ということになるのです。

 

どんな意見を持つかは、個々人の内面の活動です。そこにはスキルなどありません。では、教育は無為でいいのでしょうか。

 

生活綴り方は、内省つまり、自分の考えや行動を深く顧みることを大事にします。

それは、事実をていねいに綴る指導と赤ペンによる励ましの積み重ねの上に育つ力です。

自分をしっかりと見つめられる子どもは、周りもよく見えるようになっていくのです。自分の考えを持てるようにもなっていきます。

私の浅い実践の中にでも、そうした子どもが幾人もいました。--この力こそ、「自分なりの意見を持ち」云々の基盤になるのではないでしょうか。私は、そう考えています。

 

したがって、少なくとも低学年においては、論理的という前に事実を丁寧に綴る指導を、高学年においても並行しての指導を行う必要があると考えています。

 

論理的表現力のご時世に生活綴り方を取り上げる所以です。

 

 

 

1988年、何人かの教師仲間向けに出していた通信で「生活綴り方夏期講座」なる連載をしたことがあります。「生活を綴る」では、その一部を紹介していきます。

 

■生活綴り方の伝統に学ぶ■①

 

生活綴り方とは

 

 ここでは、「生活綴り方」とは何かということを紹介する。一言で言えば、それは、東北の土の匂いの中で育まれた教育の営みである。

 

 国分一太郎著の『生活綴方事典』(明治図書)には、次のように生活綴り方が定義されている。

 

 生活綴方とは、生活者である子どもたち(または、おとなたち)が、外界の自然や社会、人間の事物、または自他の精神の内部にふれたときに考えたことや、感じたこと、つかみとったものを、それが出てきたものである事物の形や動きとともに、ありのままに具体的にいきいきと文章に表現したものをいう。この際生活綴方に「生活」という限定詞を加えるのは、生活者が書くからであり、「綴方」といわれるのは、大正のはじめ以後わが国の民間教育運動のなかで育ったリアリズムの綴方の伝統・遺産をうけついだ性格の表現をとらせるからである。また、この生活綴方の作品では、自分のものとなったコトバ、体験に裏づけられたコトバで書かれることをことのほか大事にする。
 つまり、生活文即生活綴り方ではない。生活綴り方とは、生活者が自分のものになった言葉で書く、リアリズムに徹した作文だと言える。また、書くという仕事を単に表現の指導だと短絡的にはおさえない。そして、ひとまとまりの日本語の文章をかかせる手順については、厳しい条件を要求する。書くものの本質や、相互関係的意味とねうちを見出すこと、事実にもとづいた思想・感情はもちろん、書き手である子どもたちの観察力・想像力・思考力をのばすとともに、ある種の固定観念や偏見などから解放して、自由で個性的な自我を確立させ、人間的な社会的連帯感を養うことまでめざすのである。 

 


生活綴り方の起点


その背景として北方性教育に触れておく必要がある。


 北日本国語教育連盟「北方性とその指導理論」(『綴方生活』1935年 7月号)には、次のようにある。

暗い空の下で、やせた土地をかかへて、しかも愚鈍に生きて来た幾世紀の地方の歴史は、時代といふ現実にはげしい苦難を与へられた。しかもこの第一の苦難は、肉体的なもので、極端な経済窮乏の形をとってあらはれた。次に来るべき当然の受難は、思想の問題でなければならない。」そこで、教師たちは、「うそでない事実、眼前の考え方、生き方を止揚することによって、より健康な、より明朗な生活へ前進する新興生活教育運動の一翼として態度」しようとする。

そして、いう。

……北方の子供たちは、北方の文化を開拓する一歩前進への散兵だ。私達はこの散兵を指揮しなければならない。私達の標準は、正しい社会発展への明確な角度として散兵の協働性を要請する。北方の生活台に立って、北方の子供らしい生き方がこの地帯の生活性としての協働の役割となって来るのである。先づ私達は、北方の子供たちにはっきりとこの生活台を分らせる。暗さに押し込める為めではなく、暗さを克服させるために、暗いじめじめした恵まれない生活台をはっきり分らせる。分ったために出て来る元気はほんたうのものであると私達は考へてゐる。……


・国分一太郎「綴る前の指導略図」(『工程』1935年 9月)

 生活から学び、生活を大事にし、生活の眼をひらき、生活の姿勢を正し、生活を深め、生活を進める、常住不断の教育営為を「綴る前」の指導というゆえんは、イ、何にこそ感動したらいいか--生活感情の豊かさと深さを、ひろめ、ふかめる仕事である。ロ、何をこそ求めたらいいか--生活態度の前進・昂揚の迫力をます指導である。ハ、イとロとは、「何を」観察し、反省し、行動するかを教えて、表現に際しての、細心な観察と、厳しい反省と強い断定をもたらす。