教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 2月19日

強制収容を忘れない日

 

1942(昭和17)年の2月19日、ルーズベルト大統領の命令によりアメリカに住む日系アメリカ人11万2千人が強制収容所への転住を余儀なくされました。


Wikipedia」の「日系人の強制収容」に詳しい記述があります。一部を引用して紹介します。

日系人の強制収容

日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう、英: Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時において連合国、特にアメリカ合衆国アメリカの影響下にあったペルーやブラジル、メキシコなどのラテンアメリカ諸国、またカナダやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。1942年から終戦後の1949年に亘って実施された。

 

マンザナー強制収容所

強制収容される日系アメリカ人

 


大統領令9066号」への署名
その後も連合国軍が敗退の一途をたどっただけでなく、同月には日本海軍艦艇によってバンクーバー島のカナダ軍施設に対する砲撃が行われた負傷者を出した他、上記のような西海岸沿岸におけるアメリカやカナダ船舶に対する度重なる日本海軍の潜水艦による攻撃などもあり、その後も変わらず「日本軍によるアメリカ本土上陸が近い」、「日本軍による空襲が行われる」と噂され、政府上層部がその対応に追われるなど、アメリカ人の反日感情はピークに達していた。これらの流れに勢いづいた陸軍省は、西海岸地域一帯における軍統制を実現するためにまず司法省を説き伏せようと、様々な手を使って司法省とホワイトハウスに働きかけた。またこのような働きかけに対して、戦時下という非常時におかれていた司法省も法の理念を守り通すことができなかった。

こうして1942年2月19日にルーズベルト大統領は、「大統領令9066号」に署名を行い、「軍が必要がある場合(国防上)に強制的に『外国人』を隔離する。」ことを承認した。

 

 

強制収容の実施
日系アメリカ人と日本人移民

大統領令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州ワシントン州オレゴン州アリゾナ州、そして準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。

最終的に同年3月29日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、それ以前に自ら立ち退いた一部の人間を除く多くの日系人は、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により家を追い立てられ、戦時転住局(英語版)によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。

しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館や競馬場の馬舎(本項冒頭に掲載の羅府新報に記載されているサンタアニタパーク競馬場もその一つ)であった。なお、収容者のほぼ3分の2はアメリカで生れ育った日系アメリカ人だった。

サンタアニタのセンター」に運ばれてきた日系アメリカ人。

アメリカ軍兵士の監視下にある。

議会ではアメリカ本土の議員(準州であるハワイからの議員はいなかった。)から全てのハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の強制収容を支持する声も挙がったが、ハワイでは約1000人以上の日系人と日本人移民、約100人のドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人が、アメリカ本土もしくはハワイの8箇所に設置された強制収容所に送られるに留まった。

ハワイでは既に戒厳が宣告されており、スパイ行為や破壊行為の抑止は十分できると考えられた為、ハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の大部分は強制収容を免れた。また、ハワイ諸島には、1940年米国国勢調査の時点で全住民の約37.3%に相当する15万7905人の日系人(うち「ネイティブ」即ちハワイもしくはアメリカ国内で生まれた者、もしくはアメリカ以外で生まれたが、親がアメリカ国籍を持っていた者が12万552人と約76.3%を占めた)が住むなど、日系人があまりにも多く、社会生活が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、強制収容するには現実的に無理があった。

 

 

関西テレビが2022年2月21日に報道した「日系人強制収容から80年 『天皇への忠誠を捨てるか?』迫られたアメリカへの忠誠 ルーツだけで敵とみなされた過ちの歴史」に、強制収容の証言が収録されています。

www.youtube.com

「カンテレ」HPに証言を起こした記事が掲載されています。

日系人強制収容から80年 「天皇への忠誠を捨てるか?」迫られたアメリカへの忠誠 ルーツだけで敵とみなされた過ちの歴史
2022年02月21日

80年前の1942年、日本との戦争が激化していたアメリカで、「ルーツが日本」というだけで、12万人以上の日系人が強制収容されました。
その歴史を語り継ぐ人たちが、今抱く「危機感」を取材しました。


■わずかな荷物で自宅を追われ…日系3世の記憶

京都市に住む野崎京子さん(82)は、アメリカで生まれ育った日系3世です。
カリフォルニア州でイチゴ農家を営んでいた野崎さん一家の生活は80年前(1942年)、戦争によって一変し、わずかな荷物だけを持って自宅を追われました。


【野崎さん】
「これ(カバン)を2つ持って収容所に入ったんです」
――Q:.当時4人家族の物をここに?
「そうです、これ2つに入れて。大変だったと思います」


【野崎さん】
「本当に大変な思いをしてイチゴを作って」
「1日に3時間くらいしか寝なくて、自分の頭にフラッシュライトを括り付けて夜中でも収穫をして、イチゴの香りがする中で、4月ですね、それを放り出して収容されたんですよね。さぞや無念だったろうなと思って」


アメリカ国籍なのに…日本にルーツあるだけで収容所に


1941年12月、真珠湾攻撃で日米は太平洋戦争に突入し、アメリカに住む日系人たちは、「敵性外国人」とみなされました。
そして2カ月後の1942年2月19日、当時のルーズベルト大統領が署名した「大統領令」によって、西海岸に住む日系人12万人以上が自宅を追われ、10カ所の強制収容所へと送られたのです。


そのほとんどは、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ人たち。「日本にルーツがあるだけで危険な人物だ」という、人種差別的な憶測によるものでした。


■粗末なバラックに収容 「親日」とされると留置施設に

【記者リポート】
「この辺りは草が枯れて乾燥した土地が延々と広がっています。この時期は気温が氷点下まで下がります。金網の向こうに、かつて日系の人たちが暮らした収容所があったということです」

カリフォルニア州北部にあった、ツールレイク強制収容所。ここには、多い時にはおよそ1万9000人の日系人が収容されました。


学校などの施設は整備されていましたが、収容所の敷地は鉄条網で囲まれ、監視塔からは武装した兵士が常に目を光らせていました。

【記者リポート】
「これが実際に人々が実際に暮らしていたバラックです。壁も天井もすべて木材を組み合わせただけの非常に簡素な作りとなっています」


厳しい気象条件の中、人々は粗末なバラックでの生活を強いられました。収容所の中でも特に監視体制が厳しいツールレイクでは敷地の外に出ることは許されず、「親日」ととられる行動をとった人を収容する留置施設までありました。

【ツールレイク強制収容所跡を管理している国立公園局の担当者】
「ここは刑務所であり柵の中にあったので入れられたのは、犯罪者や悪人だけだと思われがちですが、そうではありません。家族がいる普通の人、自分や家族に対する仕打ちにただ怒っている人たちだったのです」


■「天皇への忠誠を捨てるか」NOと答えた父

実はこの収容所に送られた人たちには多くの場合、共通点がありました。アメリカへの忠誠を問う質問に「NO」を突き付けていたのです。
各地の収容所にいる日系人たちにアメリカ政府が送った「質問書」。その人を収容所の外に出すことが出来るのかなど、様々な狙いがあったとされ、「天皇への忠誠を捨てるか?」「アメリカ軍に入隊する意思があるか?」といった質問が並びます。
アメリカへの忠誠を問うこれらの質問に、「NO」と答えた多くの人は、各地の収容所からツールレイク収容所へと移されました。


野崎さんの父、力(つとむ)さんもその1人でした。「Yes」と書けば日本にいる親族がどうなるか分からない、そう考えた末の苦渋の選択でした。
その上で「アメリカと敵対するつもりはない」と書き加えたものの、一家はツールレイクへ移されます。


その後、力さんだけが「抑留所」と呼ばれる施設へ送られ、家族は離ればなれで暮らすことを余儀なくされたのです。

【野崎さん】
「一番彼(父)が言いたかったことは、これを、キャンプ(収容所)に入れる前にこういうことを聞くべきだ、と。入れてしまって自由も奪い、アメリカ人としての権利をすべて否定した後に、アメリカ人として戦えなんて、よく言えたなと」


アメリカ政府は公式に謝罪も…なくならないヘイトクライム

戦後、アメリカ政府が公式に謝罪したのは40年以上経った1988年。当時のレーガン大統領が「人種差別による重大な過ちだった」と認め、1人当たり2万ドルの補償金が支払われることになりました。
しかし、新型コロナ以降、トランプ前大統領の対立をあおる発言などによって、アジア系の住民に対するヘイトクライムが急増するなど、「過ちの歴史」は様々な形で繰り返されています。


ロサンゼルス中心部にある「全米日系人博物館」は、日系人の移民や強制収容の歴史を伝えています。この日は地元の中学生たちが見学に訪れていました。
スタッフが「強制収容について、アメリカ政府は謝罪をしたと思うか」と中学生たちに質問すると、「していない!」との答えが。
スタッフは、「実際は謝罪しています」と応じました。

【見学していた中学生】
「強制収容はとても悪いことだと思います。二度と起こってほしくないと思いました」
「自分の家族もアメリカに移民として来たので共感出来ました。他の文化や他の人種の人たちのことを知ることが出来て、とても興味を持ちました」


■まだ十分に知られていない強制収容の歴史

日系3世のマサコ・ムラカミさん(87)も9歳からの2年間、ツールレイクの収容所で暮らしていました。
父親は、アメリカへの忠誠を迫る質問書に「No」と答えましたが、戦争が終わった後もそのことについて、話そうとしなかったということです。


【ムラカミさん】
「ツールレイクにいた人たちは、他の人たちに見下されると思って、(NOと答えたことを)話したがらなかったんです」
「私の両親も、父が亡くなる直前まで話しをしませんでした。(亡くなる直前に聞いた話では)父はアメリカ政府に対してとても怒っていました。私たちはみんなアメリカ市民なのに、強制収容所に入れられたからです。だからこそ父は質問書にNOと答えた、と言っていました」


ムラカミさんは、博物館が30年前にオープンした当初からボランティアスタッフとして運営を支えてきました。強制収容の歴史はアメリカ国内でもまだ十分に知られていないと感じています。

【ムラカミさん】
「人々は、二度と同じ事を繰り返さないために、過去に何が起きていたのかということを知る必要があります。だからこそ、この博物館がここにあることが、とても大切なことだと思っています」


■過ちの歴史を伝え続ける「語り継ごう」

京都市に住む日系3世の野崎さんは、のちに研究者となり、大学での講義や執筆活動を通じて伝えています。
真珠湾攻撃が引き金となり、日本にルーツがあるだけで「敵」とみなされました。
野崎さんは強い危機感から今も、当事者として、そして研究者として過ちの歴史を伝え続けます。


【野崎さん】
「知らないからやってしまうということがある。差別する人というのはほとんど自分が差別しているつもりがないんですよね。当たり前だと思っている」
「(強制収容が)ずっと前に起きたことというだけじゃなくて、今でも起きていることと結びついている。過去のことだけじゃないなと、今でもあることだなと、誰もが経験するかもしれないことだなと」
「忘れないで覚えておこう、語り継ごう、それって大事なことだなと思います。私もそれを微力ながらやっていると自分では思っています」

 

関西テレビ「報道ランナー」2022年2月21日放送)