教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 2月13日

苗字制定記念日

 

1875(明治8)年2月13日、「平民も必ず姓を称し、不詳のものは新たにつけるように」と苗字を名乗ることを義務づける「平民苗字必称義務令」という太政官布告が出されました。

 

明治8年2月13日太政官布告第22號

平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候処自今必苗字相唱可申尤祖先以来苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候様可致此旨布告候事

 

(平民に苗字を許す旨明治三年九月に布告したが、今より必ず苗字を唱えるべく申す、もっとも祖先以来苗字が分からない者は新しく苗字をもうけるよう布告する)

 

 

「平民苗字必称義務令」の理解には、それ以前の歴史の補足が必要です。

きょうは何の日」の「9月19日」に詳述していますのでご覧ください。

yosh-k.hatenablog.com

 

「wikiwand」の「平民苗字必称義務令」の項に記載のエピソードを紹介します。

苗字のない者たちの苗字創設の模様
この布告により苗字のない者たちは苗字を創設することが義務付けられたが、何という苗字にするかは全く当人の自由であった。旧士族だった者は武士時代の苗字を戻す者が多く、それ以外の百姓や町人の大部分は祖先の地を付ける者が多かった。屋号や職業名を名字にする者もあった。

百姓などには字が書けない者や先祖のことなど全く分からない者もあるので、村の学識者(僧侶、神主、塾の師匠など)につけてもらったケースも見られる。僧侶や塾の師匠につけてもらって、檀徒、氏子、釈氏、釈子、仁木、孝子といった苗字になった者もある。

役場の戸籍係に苗字をつけてもらう者もあり、戸籍係に適当につけてくれと頼んだ結果「適藤」という苗字にされた者や、「先祖が戦争で手柄を立てた」というので「手柄」という苗字になった者もある。「うちは古い家柄だ。それを盛り込んでくれ」と言われた戸籍係が「古代はどうだね」と聞くと「もう少し古い」といい「じゃあ太古は?」と聞くと「もっと古い」というので太古前という苗字に決まった者もあった。前の人と同じ苗字という意味で「左に同じ」といったら左同になった者もあった。店主に苗字を付けてもらった二人の店子が話に夢中になって役場に付いたときには何という苗字だったか忘れてしまい、「二人が・・・二人が・・・」と口ごもっていたら、両名とも「二人」という苗字にされ、その後「ふひと」と読むと教えられたという。日本一立派な姓が欲しいと「陛下」にしようとした者もあったが、村長の忠告で「陛上」にし、現在は「階上」に落ち着いているという。

鰻取りの名人だから「鰻」にする者、夫婦喧嘩をやめるよう「円満」にする者、未亡人が新しい主人を射止められるよう「射矢」にする者、賤ヶ岳七本槍の加藤・福島・片桐・脇坂などや、徳川四天王の酒井・榊原・井伊・本多など有名武将と同じ苗字にする者などもあった。大阪の下町の46軒の長屋の住民たちが仮名手本忠臣蔵の47士の苗字(「大星」「寺岡」など)からくじ引きで決めたという事例もあった。

江戸時代の苗字の種類は3万種に過ぎなかったが、現在日本人の苗字のバリエーションは12万種あるといわれる。増加した9万種の苗字は明治期に創出されたものである。

 

 

我が国における氏の制度の変遷

徳川時代
一般に,農民・町民には苗字=氏の使用は許されず。


明治3年9月19日太政官布告
平民に氏の使用が許される。


明治8年2月13日太政官布告
氏の使用が義務化される。

※ 兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる。


明治9年3月17日太政官指令
妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。

※ 明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる。


明治31年民法(旧法)成立
夫婦は,家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる(夫婦同氏制)。

※ 旧民法は「家」の制度を導入し,夫婦の氏について直接規定を置くのではなく,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同氏になるという考え方を採用した。


昭和22年改正民法成立
夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称することとされる(夫婦同氏制)。

※ 改正民法は,旧民法以来の夫婦同氏制の原則を維持しつつ,男女平等の理念に沿って,夫婦は,その合意により,夫又は妻のいずれかの氏を称することができるとした。