2023年5月3日。
きょうは、76回目の憲法記念日です。
「憲法9条は死んだ」
2023年4月14日の「朝日新聞」に掲載されたインタビュー記事の見出しです。
「憲法9条は死んだ」と語るのは、小泉内閣で内閣法制局長官を務めた阪田雅裕さん。
記事の一部を引用します。
--昨年暮れ、岸田文雄内閣が国家安全保障戦略を改定した後、「憲法9条は死んだ」と話されています。どういうことですか。
「9条には第2項で定めた『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』としてきたことに圧倒的な意味がありました。自衛隊があっても軍隊ではないというための柱が二つあります。 まず、海外で武力行使をしない。つまり集団的自衛権を行使して米軍と一緒に戦うようなことはできないとしてきました。しかし、安倍晋三内閣が推し進めた安保法制で、この柱が一つ失われました」
--集団的自衛権を行使する場合、海外での武力行使も可能となったと。
「その通りです。 すでに瀕死といっていい9条でしたが、かろうじて『専守防衛』というもう一つの柱は生き残っていました。 しかし国家安全保障戦略改定により、わが国が弾道ミサイルなどによって攻撃された場合、ミサイル基地など相手国への攻撃を行う能力を自衛隊に持たせることが決まりました。敵基地攻撃能力とよばれ、政府が反撃能力とよぶものです」
そして、他国へ攻撃力持ちながら「専守防衛は不変」とする政府の見解は詭弁だと言い切ります。
いわゆる「護憲派」の論客の弁であれば、当たり前のはなしです。
阪田さんは「法制度の番人」としての見識で、「詭弁」だと断罪しています。そして、
「大切なのは法治主義の国であることを守っていくことです。 憲法の拡大解釈ではなく、問題があるなら適宜、逐次改正して対応すべきです。」として、改憲が必要なら国民に説明するのが政治家の責務だと述べています。
取材をした駒野剛記者は、記事をこう結んでいます。
かつての内閣法制局長官が「9条は死んだ」と見る変化があっても、世間の関心は低く、国会でも目立った論戦は展開されない。
(略)
しかし、「事態がこうだから、やむを得ない」と変化を安易に許容し、死んだ条文をそのままに放置することは極めて不健全な態度といわざるを得ない。(略)
敵の国土を攻撃できる9条とは、なんと生まれた姿から離れたグロテスクな存在だろう。たとえ大きなエネルギーや時間を要するのだとしても、9条をこのまま放置すべきではないと私は考える。
「国民も覚悟を持って事態(引用者注:日本が攻撃的兵器を保有しだしたということ)を受け止めなければ、いざ有事となって、聞いていない、では済みません。」と、阪田さんは国民に自覚と「覚悟」を求めました。
遠くない将来、深い嘆息のなかで阪田さんの言葉を噛みしめることになるのでしょうか。
きょう(2023年5月3日)の朝日新聞に「憲法を考える」という記事がありました。
「弱い」私たちの盾 9条は死なず
蟻川さんは、憲法9条は「反故」にされたが、死んではいないと言います。
「戦争によって最初につぶされるのは、………自由です。」
「戦争放棄をうたう9条は、深いところで自由の基盤を支えているのです。」
「9条は、…ひとびとの『弱い』心のかわりに存在しています。ゼロから自分の言葉で批判するのをためらう人も、9条を盾に、『憲法の精神に立ち返ろう』と言うことができるからです。」
「『弱く』ても立ち上がることができるのは、9条という見えない盾をひとりひとりが胸に構えているからです。……使おうと思う人がいなくなったときが、9条の死ぬときです。」
法制度においては、「憲法9条は死んだ」と解釈するのが妥当なのでしょう。
阪田さんは、その現実に「覚悟」を持てと言います。
「覚悟」の意思表示が「憲法9条遵守」か「憲法改正」かは、一人ひとりに求められた宿題です。
「憲法9条遵守」の意思表示をするに際して、蟻川さんの言葉が生きてきます。
「ゼロから自分の言葉で批判するのをためらう人も、9条を盾に、『憲法の精神に立ち返ろう』と言うことができる」
この盾を「使おうと思う人がいなくなったときが、9条の死ぬとき」であり、逆説的に言えば、盾を使う人がある限り「9条は死なず」というわけです。
「死んだ」のか「死なず」なのか、微妙な問題です。いずれにしても「瀕死」状態であることは否めません。
この現実と一人ひとりが正面から向き合うことが求められている5月3日。76歳の憲法記念日です。