教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 9月8日

サンフランシスコ平和条約調印記念日

 

1951(昭和26)年9月8日、吉田茂首相をはじめとする日本全権は、第2次世界大戦中、我が国と戦争状態に入った連合国48カ国の代表とともに、「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)に調印しました。

 

同条約は、1952(昭和27)年4月28日発効し、約7年間におよんだ占領が終結し、日本は主権国家として独立を回復しました。

この条約は、日本が朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖島、千島列島・南樺太を放棄することを規定しました。アメリカには、沖縄・小笠原諸島における施政権が認められました。

また、国際連合に協力することが日本に義務づけられました。

 

「世界史の窓」より引用します。

サンフランシスコ平和条約


1951年9月、サンフランシスコ講和会議で締結された第二次世界大戦の連合国と日本の講和条約であり、日本に対する占領の終結と主権回復を認めた。1952年、4月28日に発効した。

 

 1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議の結果として締結された第二次世界大戦の連合国諸国と日本の講和条約である。連合国のうち、48ヵ国が署名して日本の主権の回復が認められた。48ヵ国は日本が直接交戦しなくとも、中南米諸国などドイツに宣戦布告したため自動的に日本と交戦国となっていた国々が多い。ただし、交戦国であった中国(中華民国中華人民共和国)とソ連、およびインド・ビルマが加わっていないので、片面講和と言われた。発効は52年4月28日。

POINT  連合国の中で、ソ連・中国その他が調印していないこと(事情はそれぞれ異なるが)。


■主な内容

戦争状態の終結、日本の主権の回復:日本は個別的および集団的自衛権をもち集団的安全保障条約に参加できること。
領土の規定:日本は朝鮮の独立を承認、台湾・澎湖諸島南樺太・千島列島を放棄する。琉球諸島小笠原諸島アメリカの統治下に置かれた。
賠償外国為替上の負担を日本にかけない、とされ事実上無賠償となった。


■意義

 日本が主権を回復するとともに冷戦の中で西側陣営に組み込まれるサンフランシスコ体制が成立した。中国、ソ連との国交回復はなされず、北方領土問題を含めてこれ以後の大きな問題の発端となった。また同時に締結された日米安全保障条約によってアメリカとの同盟関係が成立し、米軍の駐留が恒常化された。

 

■問題点

 サンフランシスコ講和会議、およびサンフランシスコ平和条約の問題点は次の通りである。
日本の最初の交戦国である中国が、中華民国中華人民共和国のいずれの代表も会議に招聘されず日中間の講和は後回しとなった。(アメリカは中華民国=台湾のみを代表と認めたが、ソ連とイギリスは中華人民共和国を承認していたので、どちらを招聘するかで意見が対立し、トルーマンは結局そのいずれをも招聘しなかった。)
ソ連は、会議には参加したが、条約には中国代表が参加していないこと、日本独立後もアメリカ軍が駐留することに反対して署名しなかった。そのため、日ソ国交回復もできなかった。
インド・ビルマという、いずれも日本と交戦したアジアの諸国が、中国の不参加を理由に会議に参加せず、条約にも署名しなかった。
中国・インド・ビルマソ連などとの国交回復

 サンフランシスコ平和条約に加わらなかった諸国との国交回復(平和条約締結)は次のように行われた。
 中華民国(台湾)=国民党政権とは1952年4月、日華平和条約を、インドとの間では1952年6月、日印平和条約を、ビルマとの間では54年11月、日本ビルマ平和条約をそれぞれ締結し、いずれも賠償請求権は放棄された。
 中華人民共和国中国共産党政権とは依然として国交を持たなかったが、70年代に入り政府が方針を転換、1972年に日中国交を回復し、日華平和条約は破棄された。なお、1978年には日中平和友好条約が締結された。
 ソ連との間は、1956年に日ソ共同宣言が出されて国交を回復したが、平和条約は締結されていない。
 なお、大韓民国とは1965年、日韓基本条約を締結し国交関係を樹立したが、日本は韓国を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」と認定し、北朝鮮を無視する姿勢をとっているため、北朝鮮とは国交関係は成立していない(つまりこの部分では戦争は終わっていない)。


日米安保集団的自衛権

 全面講和を主張し、片面講話に対して反対する声も強かったが、吉田茂内閣はサンフランシスコ平和条約に調印した。国内では日本の独立回復を祝う声で覆われたが、独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって、戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる。
 サンフランシスコ平和条約では日本の個別的自衛権集団的自衛権を有することが認められ、まず再軍備が始められた。それは日本国憲法と矛盾することであったが、「専守防衛」に徹することは憲法には反しないという「解釈」がなされた。しかし、さすがに「集団的自衛権」は専守防衛から外れることが想定されるので、「日本は集団的自衛権は有しているが憲法の制約があるので行使はできない」というロジックが政府の公式見解とされることになった。


■領土問題の棚上げ

 戦後日本の領土は、ポツダム宣言(およびその前提となるカイロ宣言)と、このサンフランシスコ平和条約で確定されたはずであった。しかし、ソ連が加わっていなかったことと千島の定義が不明確であったところから北方領土問題が残り、また韓国との間には竹島問題、中国との間には尖閣問題で禍根を残すこととなった。


■主権回復記念行事の開催

 第二次安倍晋三内閣は、2013年4月28日、政府主催で「主権回復記念行事」を天皇皇后の出席のうえ開催した。この日付は、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本が連合国軍総司令部(GHQ)の占領から脱し、主権回復を認められたことを受けている。自民党政権はこの日を主権回復の日と位置づけたが、それに対してはサンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約が締結されて、日本のアメリカに対する軍事的従属が確定したこと、特に沖縄は広大な米軍基地が残存していることから、真の主権回復ではないとし、その日を政府主催で祝うことは沖縄を切り捨てることになるとして反対運動も繰り広げられた。

 

「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約

https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

 

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約日米安全保障条約

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。

 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。

 平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。

 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。

 よつて、両国は、次のとおり協定した。

第一条

 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

第二条

 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。

第三条

 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

第四条

 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。

第五条

 この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が両国によつてワシントンで交換された時に効力を生ずる。

 以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。

 千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、日本語及び英語により、本書二通を作成した。

日本国のために

吉田茂

アメリカ合衆国のために

ディーン・アチソン

ジョージ・フォスター・ダレス

アレキサンダー・ワイリー

スタイルス・ブリッジス