教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 9月29日

日中国交正常化の日

 

1972年9月29日、当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相は、北京で共同声明に署名し、「恒久的な平和友好関係を確立する」ことで一致しました。これがいわゆる「日中国交正常化」です。

その1ヶ月後、日中両国の友好の証として、中国から日本へ、初めて2頭のパンダ(「カンカン」と「ランラン」)が贈られたことでも大きな話題となりました。

その後、1978年8月12日に日中平和友好条約が署名され、両国は歴史の新たな一頁を開くことになりました。

                            (外務省HPより)

 

引き続き、外務省HPより引用します。

日本国政府中華人民共和国政府の共同声明

 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
 田中総理大臣及び大平外務大臣周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。
 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。

  日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

千九百七十二年九月二十九日に北京で

 
 日本国内閣総理大臣  田中角栄(署名)
 日本国外務大臣  大平正芳(署名)
 中華人民共和国国務院総理  周恩来(署名)
 中華人民共和国 外交部長  姫鵬飛(署名)

 

日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約


 日本国及び中華人民共和国は、
 千九百七十二年九月二十九日に北京で日本国政府及び中華人民共和国政府が共同声明を発出して以来、両国政府及び両国民の間の友好関係が新しい基礎の上に大きな発展を遂げていることを満足の意をもつて回顧し、
 前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、
 国際連合憲章の原則が十分に尊重されるべきことを確認し、アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、
 両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、
 平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。

 日本国     外務大臣 園田 直
 中華人民共和国 外交部長 黄  華

 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。

第一条

1   両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。


第二条

 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。

第三条

 両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。

第四条

 この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。

第五条

1   この条約は、批准されるものとし、東京で行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによつて終了するまで効力を存続する。
2 いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。


 以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。

 千九百七十八年八月十二日に北京で、ひとしく正文である日本語及び中国語により本書二通を作成した。

 日本国のために     園田 直(署名)
 中華人民共和国のために 黄  華(署名)

 

「世界史の窓」より引用します。 

日中国交正常化


1972年、田中角栄首相が訪中、毛沢東らと会談、国交の正常化で合意して日中共同声明を発表した。戦争状態の終結、国交樹立交渉が始まり、難航の末、1978年8月、日中平和友好条約が締結され、国交が回復された。

 

 日中戦争は1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾したことによって日本の敗北となり、戦闘行為はおこなわれなくなったが、両国間の講和は中国の国共内戦(第2次)もあって、すぐには実現しなかった。そのため、中国には多くの日本人が残留し、また多くの日本人残留遺児が長い苦悩を続けることとなった。


■遅れた日中の国交回復

 中国では1949年、大陸部を制圧した中華人民共和国が成立していたが、日本はアメリカに追随してそれを承認せず、台湾の中華民国政府を中国の正当な政権としていた。1950年6月、朝鮮戦争が勃発したことを受けて、アメリカは日本を西側陣営に組み込むため、戦後の日本の連合国との講和会議である1951年のサンフランシスコ講和会議を召集した。しかしそれには中華人民共和国中華民国いずれも招待されなかったため、日中国交回復はなされなかった。同時に日米安全保障条約が締結され、一方翌年には日本は台湾政府との間で日華平和条約を締結、中国共産党政権下の中華人民共和国とは国交のない状態となった。
 1950年代から民間貿易が始まり、1962年には政経分離の原則により日中貿易が進展していたが、東西冷戦下、ベトナム戦争などの影響もあって、日中間の国交正常化交渉は行われることはなく、長く放置された。この間、中国に取り残された残留孤児は中国人に養育されながら、帰国のあてのない年月を送らざるを得なかった。

 

■米中の日本頭越し外交

 ところが、1971年のキッシンジャー訪中、1972年2月21日のニクソン訪中は日本の頭越しに行われ、日本政府を大いに慌てさせた。日本外交の遅れを取り戻すため、田中内閣も日中国交回復を急ぐこととなった。


■戦後33年目の国交回復

 田中角栄首相が訪中、中華人民共和国首脳の毛沢東周恩来などと会談し、日中国交正常化に合意し、1972年9月29日に日中共同声明を発表した。日本側は過去の戦争責任を痛感、反省することを表明し、日中平和友好条約の締結をめざすこととなった。これによって日本は中華人民共和国を中国唯一の政権と認めたので、台湾とは断交することとなり、1952年に締結されていた日華平和条約は無効となった。
 日中共同声明で日中間の平和条約締結交渉に着手することとなったが、当時ソ連と鋭く対立していた中国側との「覇権条項」に関する意見の相違から手間取ることとなり、ようやく1978年8月12日に日中平和友好条約が締結される。こうして終戦から33年目、講和のないまま正式な国交のなかった日本と中国は国交を回復し、最終的に戦争状態を終わらせたのだった。
残留孤児の問題 日中国交は回復したが、当時中国は文化大革命の最中であったため、残留孤児の問題は未解決のまま放置され、民間の努力による帰国事業がようやく1980代から始まった。2020年現在、帰国して永住している人の総数は6724人(家族を含めば約2万人)となっている。<厚労省ホームページ 中国残留邦人の状況>
 まだ多くの残留日本人がいるが、すでに中年に達し、その二世の時代になっており、問題は継続している。戦争と戦後の国際政治に翻弄された日本人のことを、世界史の学習の一部として忘れないようにしよう。