教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 7月8日

黒船来航

 

黒船来航とは、1853(嘉永6)年6月3日、江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に、アメリカ合衆国東インド隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる4隻の軍艦が現れたことを指します。
旧暦の嘉永6年6月3日は、いまの暦で1853年7月8日になります。

 

下田市のHPより引用します。

ペリー黒船艦隊来航と日本開国

 

幕末・黒船来航時の時代背景


 幕末期、日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていきました。
イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられました。
 18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしましたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持します。しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとしました。
 しかしながら、鎖国を守る姿勢は変わらず、弘化元年(1844)、オランダ国王が親書をもって開国を奨めますが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとしました。弘化3年(1846)、アメリ東インド隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国しました。

 

日米和親条約の締結


 嘉永6年(1853)6月、アメリカの東インド隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせます。その圧力に負けた幕府は、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期させます。
 約束の嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府を威圧して条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結されることとなります。
条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
等、計12条でした。これにより、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも同様に条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになりました。

 

ペリーの下田来航

 日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します。

 浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航しました。
 ペリー艦隊の最初の上陸は非公式でしたが、浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛が応接し、3月24日群集が見物する中、了仙寺で饗応が行われました。幕府は急遽、嘉永7年3月24日下田奉行に伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)を任命し(着任は5月8日、その間は黒川が応接)、ペリー艦隊の応接に当たらせました。ペリー艦隊の下田滞在は約70日を数え、そのうち約1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査でした。


日米和親条約付録 下田条約

 日米和親条約では、薪、水、食料、石炭等航海に必要な欠乏品を日本幕府が供給することを決めました。また漂流民の保護、下田湾内の小島(犬走島(いぬばしりじま))を中心として周辺七里内(約28km)の遊歩権を保障することなどが決められていました。 嘉永7年5月、箱館の見分から下田に帰港したペリーとの間に、日米和親条約付録下田条約の交渉が了仙寺で開始されます。
 付録条約の交渉は、日本側全権・林大学頭(はやしだいがくのかみ)、江戸町奉行・井戸対馬守(いどつしまのかみ)、下田奉行・伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)、都築駿河守(つづきするがのかみ)らとペリー提督の間で行われました。
 5月13日、両者会見の日ペリー一行は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に曳き、軍楽隊演奏にのって300人もの水兵が剣付き鉄砲を肩にかけて、了仙寺まで堂々と行進し、下田の人々を驚かせました。
 5月22日、了仙寺本堂で条約が調印され、25日に条約書の交換が行われます。調印式においては、日本側は畳を積み重ねた上に正座して、イスに着席した米国側と目線を合わせたといわれています。この付録条約13ケ条(下田条約)の内容の中には、米船員の上陸場所(下田、柿崎その他)、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等々の細目が決められました。
 目的を果たしたペリー艦隊は嘉永7年(1854)6月1日帰国のため、下田港を出港しました。
                    更新日:2023年03月05日

 

ペリーが浦賀に来た目的について、「ベネッセ教育情報」より紹介します。

黒船来航についての詳細5つ!黒船来航が浦賀となった理由とは?

 

黒船来航とは
黒船来航とは、1853年6月にアメリカの東インド隊司令長官ペリーが率いる軍艦4隻が江戸湾(現東京湾)に現れたことを指します。

当時の日本では、欧米の軍艦は黒く塗装されていたことから、「黒船」と呼ばれ恐れられていました。「黒船」という言葉は豊臣秀吉の時代から使用されていたようです。なお黒船が日本を訪れたのはこれが最初ではありません。18世紀末からの欧米列強の来航に限っても、ペリー艦隊の来港は通算10度目の外国船の来航でした。

では彼らは何をしに日本にやってきたのでしょうか。

 

黒船来港についての詳細5つ
ここからは黒船来航が浦賀になった理由やペリーの目的、当時の幕府の対応などについてみていきましょう

黒船来航が浦賀となった理由
ペリーが停泊する港として浦賀を選んだ理由は、海図にありました。当時の日本は外国船が江戸湾の奥に入ることを禁じていたため、欧米諸国の船は江戸湾に侵入できません。したがって、測量ができず安全な航海のために必要な測量も行えなかったのです。そこで江戸に近く、なおかつ侵入禁止ラインより手前の浦賀に停泊したのです。

当時の日本には鎖国政策が敷かれ、外国船が来航できるのは長崎の出島に限られていました。ペリーが長崎ではなく浦賀を選択した理由は、幕府への圧力をかける目的があったと考えられています。江戸から遙か遠い長崎よりも、江戸の目と鼻の先である浦賀のほうが、幕府の首脳を威嚇できますからね。

ペリーの目的
ペリーが日本を訪れた理由は、アメリカ大統領からの親書を将軍に渡すことにありました。大統領の親書には、捕鯨船が難破した際に助けて欲しいというような内容が記載されています。

アメリカでは中国貿易や捕鯨のために太平洋を航行する船が増えており、日本の港で食料や燃料を補給したいとの要望が増加していたとのこと。アメリカはこういった背景を踏まえて、日本に開港を求めるため浦賀を訪れたのです。

当時、ロシアや欧州各国も日本との繋がりをもとうとしていましたが、のらりくらりとした幕府の外交にかわされ、限定的な交流に止まっていました。ペリーはそういった外交スタイルでは日本の意思決定を促せないと思い、強硬的な態度で迫ってきました。

当時の国民や幕府の反応
日本の対応窓口は、浦賀奉行所です。当時は浦賀奉行所が異国船の応対任務を負っていました。当初浦賀奉行所の担当者はフランス語で、「ただちに退去せよ」とフランス語で書かれた横断幕を掲げましたが、ペリー側の反応はなし。

そこで奉行所の役人がサスケハナ号という旗艦に乗り込み、来航の目的を知りました。

江戸幕府側は「長崎に行くように」と告げますが、ペリー側は江戸の近くで親書を渡したいとの主張を曲げず、結局浦賀の地で親書を受け取ることになったのです。ペリー上陸の様子は「ペリー上陸絵図」など日米さまざまな絵画資料が残されており、当時の様子を伺い知ることができます。

黒船来航によって、欧米諸国との差を思い知った幕府は、欧米の事情調査や語学習得等のために「洋学所」や、洋式航海術を学ぶ「長崎海軍伝習所」を設立して、西欧文化の吸収に励みました。幕府だけでなく、長州藩薩摩藩佐賀藩なども洋式の軍事技術の導入に積極的でした。

国民は突然の黒船来航に、驚き恐怖を覚えていました。ところがしばらくすると、好奇心のほうが強くなり、黒船を見物する庶民たちが続出します。「黒船来航風俗絵巻」という黒船来航の際の人々の様子を描いた絵には、「異船見物無用」との立て札が描かれていることからも、多くの人が黒船を見物しに殺到したと推測できます。

黒船来航によって、諸外国との貿易がスタートすると、庶民の生活にも影響が出始めました。人々が大きな不満を抱いたのが、物価の急上昇です。生糸や茶などの輸出が急増したため、国内での供給が不足してしまい、物価が上がってしまったのです。

日米和親条約とは?
ペリーは江戸幕府に開国について、日本の回答を引き出そうと威圧的な態度で交渉に臨みます。一方で日本側の対応窓口の老中阿部正弘は、「翌年に回答する」として、一旦ペリーを退去させました。

そして約束の期日である1854年1月、今度は軍艦9隻を率いてペリーが江戸湾に入港します。そして3月3日に日米和親条約が締結されたのです。

日米和親条約の主な内容はこちらです。

アメリカ船に水・食料・燃料などを供給すること
下田と函館を開港すること
下田にアメリカ領事を駐在させること
日本はアメリカを最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)すること

アメリカと日米和親条約を結んだことで、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ぶことになり、日本の鎖国体制は終わりを告げます。

日米修好通商条約とは?
日米修好通商条約は、日米和親条約の2年後に締結されたアメリカとの貿易に関する条約です。アメリカ側は、中国がイギリスとフランスの連合国に敗れて不平等条約を結んだことを引き合いに出して、条約調印を迫ります。

とはいえ、国内は攘夷(じょうい)の風潮が強く、条約を締結するためには天皇の勅許(ちょっきょ)が必要であると意見する大名が少なくありません。

そこで当時の老中堀田正睦天皇に勅許を出すように求めました。ところが、その間に大老井伊直弼(いいなおすけ)が、日米修好通商条約に調印したのです。

日米修好通商条約の主な内容を確認しておきましょう。

江戸にアメリカ公使が在住すること
江戸と大坂の市場を開放すること
神奈川、長崎、兵庫、新潟の開港
アメリカに領事裁判権を認める
自由貿易を認める
関税は両国で協議して決める(関税自主権がない)

日米修好通商条約は、領事裁判権アメリカに認めていた点、日本に関税自主権がない点など、日本に不利な条項があり、不平等条約と呼ばれています。

 

少しばかり深掘りをしておきましょう。(一応、日本史が専門ですので)

ペリーの浦賀来港の舞台裏です。

当時のアメリカの最大のライバルは大英帝国で、両国は中国との貿易をめぐって争っていました。

そのころの中国への航路は大西洋で欧州を経由してインド洋を渡っていました。つまり、大英帝国に比べるとずっと不利なルートです。

そこで浮上するのが、太平洋を通って日本を中継基地とする航路です。『ペルリ提督 日本遠征記』には、日本には貿易と同時に複数の貯炭庫の設置を求めたことが記されています。

つまり、ペリーの浦賀来港の目的は、対中貿易をめぐる世界戦略の一環だったのです。